境内庭園と桔梗
桔梗紋…というと真っ先に浮かぶのは明智光秀ですが、この桔梗は、彼ではなく、秀吉の子飼い武将の一人・加藤清正の家紋に由来しています。
加藤清正は藤堂高虎と並んで築城の名手として名高かったのですが、その腕を買われて祥雲寺の建立を命じられます。清正は見事に期待に応え、美しい寺院を完成させました。その功績を称える意味で、清正の家紋だった桔梗紋を智積院のシンボルとしても用いるようになった、というわけです。
境内のあちこちを探すと、本物の桔梗はもちろん、建物などにも桔梗の姿を見つけることができます。
境内の庭は四季折々の庭を楽しんでもらえるように、以前駐車場になっていたところを紅葉の庭として整備し直したり、紫陽花を植えたり、と約4年ほど前から庭の改園事業を行っているそうです。早春は梅、夏は桔梗に紫陽花、秋は紅葉と、訪れる度に違った景色を楽しむことができます。
また、境内からは昔から地下水が湧いており、使える井戸も残っているのだそう。現在は綺麗な水がある環境を活かして、境内で蛍を育てる活動も行われています。もしかしたら、初夏の夜に境内に行くと、飛び交う蛍に出会うことができるかもしれません。
金堂への道の両脇に植えられている、智積院のシンボル・桔梗(キキョウ)。古くから日本人に馴染み深い花で、特に武士に好まれていたようです。薬の材料にも用いられました。
初夏から秋(6月から9月ごろ)が見ごろ。
金堂の裏にはたくさんの紫陽花が。元々は梅園だったそうですが、梅の木を移動して紫陽花の庭にしたのだそう。
新しさと伝統が両立する寺院建築―金堂と明王殿
境内の奥にある、お寺の中心・金堂。
もともとあった金堂は江戸時代中期、京都の織物商の出身だった桂昌院(徳川綱吉の母)の寄付を基にして建てられたものだったのですが、残念ながら明治15年に焼失。現在のものは弘法大師・空海の生誕1200年記念事業として、昭和50年に立て直されたものになっています。
ご本尊はもちろん真言宗、密教なので大日如来なのですが、ここにこの建物のユニークなところが。
実は地下にも部屋があり、そこにも大日如来が祀られています。
同じ建物にご本尊が二体、これはどういうこと?と思わず首を傾げてしまいますが、これは密教には欠かせない「曼荼羅」の世界を表したもの。地上は「金剛界」、地下は「胎蔵界」と曼荼羅の二つの世界をそれぞれ表現しています。
なので、大日如来像のポーズ(印)もよく見ると違っています。機会があれば是非ご確認を。
《明王殿》
金堂の隣には、明王殿という建物があります。
実はこの建物も元々智積院にあったものではなく、昭和22年にそれまであった本堂(方丈)が焼失してしまい、困っていたところを別のお寺(四条寺町の大雲院)から建物を譲り受け、そっくりそのまま移築したものなのだそうです。
その際は現在講堂(僧侶が経典の講義や説教をする学校のようなところ)が建つ場所にあったそうですが、その後現在の講堂が平成7年に再建された際も、壊されること無くそのまま金堂の隣に建物を移動したとのこと。聞いているとなんともスケールの大きい話です。
現在、明王殿には智積院のルーツ、根来から持ってきたという不動明王像が祀られています。金堂で行われる朝のお勤めが終わった後は、僧侶はこちらに移動して、護摩供の祈願を行うそうです。
金堂の内部は真言宗らしくとても煌びやかで荘厳な雰囲気。
金剛界の大日如来の印は智拳印といい、左手の人差し指を右手で握った形をしています。地下の退蔵界の大日如来はちょうど座禅を組んだときにする法界定印を結びます。
こちらは明王殿。手前の池では蛍の幼虫を放しているそうで、時期になると蛍が見られるかもしれません。
遠州の心を感じる、花の名勝―「利休好みの庭」
庭に丸くボール状に刈り込まれたサツキは毎年5月~6月頃に色鮮やかな花を咲かせます。また、秋には萩も咲くなど、四季折々で違った花が楽しめるようになっています。
この庭は元々は秀吉が建てた智積院の前身・祥雲寺の庭が原型。
その後智積院となってから修復され、現在では東山でも随一の庭としてその名を知られるようになりました。
「利休好みの庭」と呼ばれていますが、かといって本当に千利休が自ら庭を設計した…というわけではありません。
実際に庭を造ったのは京都でもあちこちに作品を残している名作庭家・小掘遠州。
祥雲寺が建てられた頃、利休は既に自害しており、この世の人ではありませんでした。
茶人として利休の弟子にあたり、交流を持っていた遠州は、利休ならこんな庭を造るのでは、と想像力を働かせてこの庭を造ったのでしょう。
遠州なりの利休への弔いの意味も込められていたのかもしれませんね。
因みにこの庭のモデルは、中国の江西省にある名山「廬山」、池は「長江」とのこと。
建物の前にまるで川のように長く延びる池は軒下にまで水が入り込んでいるような構造になっていて、縁側に腰掛けて眺めていると、まるで自分が水の上に浮いているような感覚も覚えます。
実際、昔はこの庭は「池水回遊式」の庭になっており、大書院自体が本当に池の上に建てられていたそう。建物の床が地面から少し浮いていたり、渡り廊下に橋がかけられていたり、と所々に面影が残ります。かつては池だった部分も白砂を敷き詰めて枯山水の庭にすることで、当時の名残が留められています。
また、池の後方に据えられた山は迫ってくるような迫力も感じさせつつ、自然と庭に溶け込むように取り入れられています。
この庭は横には長く広がっているのですが、さほど奥行きがあるわけではありません。しかし、石や植え込みの配置の工夫で、絵画のような遠近感が演出されており、実際以上に空間を広く感じさせてくれます。
他にも池を常に濁らせているのは、庭の緑が池に綺麗に写りこむように、という工夫もあります。また、僧侶らしい形をした岩(羅漢石)があったり、三味線や琵琶を弾くときに使う撥(ばち)形の刈り込みがあったり、とあちこちに仕掛けが施されています。のんびりと美しい庭を眺めつつ、遠州の遊び心や工夫の跡を、探してみるのも良いかもしれません。
※羅漢石の向こうには小さな滝があります。これは「水が流れ去る」=「法」の字を表す意味もあるそうです。
また、庭を眺められる大書院には、以前は有名な長谷川等伯・久蔵親子による『楓図』『襖図』が壁に描かれていました。現在あるのは複製品ですが、鮮やかな金碧画と緑の庭というコントラストは「都一の華やかさ」と称えられた頃の雰囲気を今に伝えています。
丸く見えるのがサツキ(ツツジ)。取材時はまだ時期には早かったようですが、5月~6月ごろになると鮮やかなピンクの花が庭を彩ります。
庭に面した大書院は縁の下まで池が入り込んでいるので、よりいっそう庭が近くに感じられます。奥には三味線の撥(ばち)の形の植え込みが。
有名な長谷川等伯らによる金碧画は、かつては大書院の壁を飾っていました。現在はレプリカが置かれています。
他にも様々な襖絵も見学させて頂くことができます。こちらは正面玄関・使者の間にある「布袋唐子嬉戯の図」。明治大正期の画家・月樵(げっしょう)上人(田村宗立)の南画作品です。手前は智積院の住職さん(化主)が行事の際に用いる坐。