宝鏡寺とは
宝鏡寺は代々皇室の姫君が住職を務めてきた門跡寺院(皇室・貴族が住職を務める寺院のこと)。
そのような関係で、御所からは娘のために数多くの人形が贈られました。
その後一般の人々からも人形が納められるようになり、「人形寺」の別名で親しまれています。10月14日には人形供養祭が行われ、春と秋には人形展が開催されています。
そのような関係で、御所からは娘のために数多くの人形が贈られました。
その後一般の人々からも人形が納められるようになり、「人形寺」の別名で親しまれています。10月14日には人形供養祭が行われ、春と秋には人形展が開催されています。
宝鏡寺の由来
皇室ゆかりの尼寺として
宝鏡寺は、号を西山といい、臨済宗に属する尼門跡寺院です。
宝鏡寺のご本尊・聖観世音菩薩像は、伊勢(三重県)の二見浦で漁師の網にかかったもの、と言い伝えられています。この仏像は小さな宝鏡を持ったとても珍しい姿の仏様です。この仏像が発見された際、宝鏡が光り輝いたため、驚いた漁師たちは仏像を朝廷へ献上しました。
仏像は御所の中に安置されていましたが、応安年間(1368~75)に京都にあった尼寺・景愛寺の支院建福尼寺に納められます。
当時の景愛寺の住職は、光厳天皇の娘である、華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼という女性でした。彼女はこの聖観世音菩薩像を本尊とし、建福尼寺の名前を改めて、宝鏡寺を開山しました。寺号の「宝鏡寺」はその際、由緒にちなみ後光厳天皇から賜ったものです。
景愛寺は弘安年間(1278~87)に創建された尼寺で、足利氏の庇護もあり、南北朝以降は禅宗の尼寺五山の第一位として栄えていました。
しかし応仁の乱や庇護者である足利氏の衰退もあり、景愛寺は失われてしまいます。しかし華林宮惠厳禅尼が寺院に入った後は、宝鏡寺の住職が景愛寺も兼任することになりました。
宝鏡寺は、かつて尼五山筆頭であった寺院の法灯を受け継いでいるのです。
寛永21年(1644)には、後水尾天皇の皇女・久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が宝鏡寺に入ります。同時に、僧侶として最高位であることを意味する「紫衣(しえ)」を身につけることを許されました。これをきっかけに、宝鏡寺は皇室との繋がりが再び強まります。
以後、宝鏡寺には皇室の直宮―天皇の血を直接受け継ぐ皇女たちが歴代の住職を務めることが慣わしとなりました。
幕末の安政5年(1857)には皇女和宮が橋本実久邸より移ってこられ、一時期滞在されておりました。その時に書院の東面にある「鶴亀の庭」で、和宮がお遊びになっていたそうです。
そのような御縁もあり、宝鏡寺には皇女和宮の御遺品も伝わっています。
姫君の寺と人形
多くの姫君が寺に入ったことから、御所からは彼女たちへの人形が贈られてくるようになります。これは、父君である天皇からの贈り物でした。
仏門に入り僧侶となるために、姫君たちは幼少の頃からお寺に入ることになりました。そのため、季節の贈り物やお見舞いとして、当時最上級の人形が贈られたのです。早いうちに別れてしまった娘を思い、その心の慰めに、という思いもあったことでしょう。宝鏡寺に数多く残されている皇女方御遺愛の人形達は、姫君たちと家族を繋ぐ「証」でもあるのです。
また、人形たちのほかにも、姫君たちの遊んだ歌留多や双六盤(すごろくばん)など、姫君たちの生活を偲ばせる品々が、宝鏡寺には数多く伝えられています。
こうした皇室からの奉納品・姫君ゆかりの品々として多くの人形が納められていた宝鏡寺ですが、内外からの要望もあり、昭和32年から展覧会の形で人形や所蔵品を、春・秋の年二回に分けて一般に公開するようになりました。
また、その2年後の昭和34年からは、人形供養祭も行われるようになりました。
人形供養祭は現在でも境内にある「人形塚」の前で毎年10月14日に行われている恒例行事ですが、徐々に広まり、一般の多くの人々からも人形やぬいぐるみが年中持ち寄られるようになり、人形供養を受け付けることになりました。
そして何時の頃からか、宝鏡寺は「人形寺」として全国にその名を知られるようになったのだそうです。
和宮も遊んだという「鶴亀の庭」。幼少時、母と離れた和宮は姉君(桂宮)と共に宝鏡寺に一時暮らしていたといいます。
境内入口右側にある「人形塚」。
昭和34年に人形を作る職人さんをはじめとした有志の手で建てられました。毎年秋の人形供養祭は、この塚の前で行われます。
塚に彫られた御所人形は宝鏡寺の由来に倣い、宝鏡を手にしているのが特徴。
下の碑文は武者小路実篤によるもので「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか しらねども 愛された事実こそ 汝が成仏の誠なり」とあります。
宝鏡寺のもう一つの名「百々御所」
宝鏡寺には、もうひとつ「百々御所(どどのごしょ)」という別名があります。
これは、明和元年(1764)に賜った御所号。皇室との関係の強さを今に伝えます。
この「百々(どど)」は宝鏡寺のある百々町からきた名で、「十(とう)」が十集まって百になるので「どど」と読ませるようになった、と言われているそうです。この表記がされている地名は、全国各地にもあるそうで、主に水に関係したところに多いといいます。
実は、宝鏡寺の近辺には昔、小川が流れており、百々町内には「百々橋」という橋もかかっていました。現在では川は埋められ、橋も小さな公園の一角に残された礎石が、その名残をとどめています。
ちょうど、このあたりは足利義満が幕府を開き、政治や文化の中心地(花の御所)ともなっていました。そしてあの応仁の乱の中心的戦場ともなった歴史があります。
応仁元年(1467)、室町幕府内での覇権をめぐり、山名宗全(西軍)と細川勝元(東軍)が対立。百々橋を挟み、何度も合戦を繰り広げます。
当時の橋は木製で、長さは約7.5m、幅も4mほどしかなかったそう。とても小さな橋の上での争いが、京都全体に広がり、やがてはほぼ街全体を焼け野原にしてしまったのです。
戦国乱世の歴史の跡が、宝鏡寺のすぐ近くには残されています。
これは、明和元年(1764)に賜った御所号。皇室との関係の強さを今に伝えます。
この「百々(どど)」は宝鏡寺のある百々町からきた名で、「十(とう)」が十集まって百になるので「どど」と読ませるようになった、と言われているそうです。この表記がされている地名は、全国各地にもあるそうで、主に水に関係したところに多いといいます。
実は、宝鏡寺の近辺には昔、小川が流れており、百々町内には「百々橋」という橋もかかっていました。現在では川は埋められ、橋も小さな公園の一角に残された礎石が、その名残をとどめています。
ちょうど、このあたりは足利義満が幕府を開き、政治や文化の中心地(花の御所)ともなっていました。そしてあの応仁の乱の中心的戦場ともなった歴史があります。
応仁元年(1467)、室町幕府内での覇権をめぐり、山名宗全(西軍)と細川勝元(東軍)が対立。百々橋を挟み、何度も合戦を繰り広げます。
当時の橋は木製で、長さは約7.5m、幅も4mほどしかなかったそう。とても小さな橋の上での争いが、京都全体に広がり、やがてはほぼ街全体を焼け野原にしてしまったのです。
戦国乱世の歴史の跡が、宝鏡寺のすぐ近くには残されています。
宝鏡寺の扁額。22世・本覚院宮の筆によるもの。