【レポ】ルーヴル美術館展 愛を描く(京都市京セラ美術館)
「愛」って一体何だ?―多彩な切り口で迫る西洋絵画の「愛」の形。
京都市京セラ美術館で久々のルーヴル美術館展が開催!
以前の京都市美術館の頃は2、3年に一度のペースで開催されていましたが、京都市京セラ美術館のリニューアルを挟んだこともあり、今回は8年ぶりのルーヴル美術館展となります。
今回は「愛」をテーマに、主に16世紀~19世紀の作品が選ばれています。有名どころはもちろんですが、今まで日本で観る機会の少なかった少しマイナーな作家、知られざる名品も多数。今までルーヴル美術館の展示を観たことがある人も新鮮に楽しめる内容です。
今回はその展示の様子をご紹介します。
※この記事は2023年6月の取材内容に基づきます。
今回のルーヴル美術館展は、京都市京セラ美術館の本館北回廊1階と新館東山キューブの2会場構成!京都市京セラ美術館としてもここまで大きくスペースを使ったのはリニューアル後初だそうです。(第1会場の本館北回廊を抜ければそのまま第2会場の新館に向かえます)
出展作品数は約70点ほどなのですが、それに対して空間の使い方がとてもゆったり。展示室一部屋あたりの作品数も抑えられ、作品と作品の間も余裕をもって配置されているので、ひとつひとつにじっくりと向き合えますよ。
「愛」という言葉に潜む様々な意味を、絵という形でひも解く。
展覧会のテーマ「愛」は人間の根源的感情であり、西洋美術において時代を超えて主題とされてきた根本的なもの。これを画家たちはさまざまなモチーフを通じて絵という「かたち」にしてきました。展覧会はそれを描かれたモチーフや表現傾向を通じて追っていく形式になっています。
展示は作品の内容別に4章立て。その中でも共通するモチーフなどでコーナーが分かれており、上の写真のように壁に見出し文が書かれているので、こちらを頼りにするとわかりやすいです。西洋絵画は、背景にある宗教文化や描き込まれたものが暗示する意味など、知識がないと難解な印象を受けますが、展覧会では見どころをたどりながら鑑賞できるようになっています。
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冒頭のプロローグでは、西洋の画家たちが「愛」が生まれる瞬間とはどのようなものと考えていたのか、「愛」の概念のベースとなる表現を、西洋文化の二本柱ともいえる古代ギリシャ・ローマ、キリスト教の視点で紹介しています。これから作品を見ていく上での前提が学べます。
メインビジュアルとなっているフランソワ・ブーシェの《アモルの標的》をはじめ、今回の展示作品にはしばしば古代ギリシャの愛の神、アモル(キューピッド/エロス)が登場します。「愛」の要素を象徴的かつ具体的に示すにはわかりやすいアイコンです。
《アモルの標的》では矢が刺さったハートの描かれた板が描かれていますが、これは「ハートを矢で射ぬかれる」=恋に落ちるを示しています。古代ギリシャでは、人が誰かに恋愛感情を抱くのは愛の神(アモル)が放った矢に心(ハート)を射られたから、つまりその人自身ではなく神が感情のスイッチを入れたからだと解釈したのです。いつのまにか突然湧き上がる感情は自分自身ではどうしようもないもの、という考えからでしょうか。
隣の展示室ではキリスト教における「愛」の始まりといえる旧約聖書のアダムとエバ(イブ)の夫婦を描いた作品が並びます。聖書の物語上では二人は神に子孫繁栄のためのつがいとして作られたので、感情で結びついた関係、「愛」という言葉で説明はされていません。しかし絵の上ではちゃんと愛情ある「夫婦」といった感じで描かれているように見えます。
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続く第1章では古代神話の世界、第2章ではキリスト教世界の絵画を、もう少し踏み込んだ内容で紹介しています。
古代神話を描いた作品でクローズアップされるのは「欲望」。古代ギリシャ・ローマ神話では、愛は欲望と表裏一体ととらえられ、人間や神がそれに突き動かされる場面がしばしば登場しています。
ヴァトーの《ニンフとサテュロス》(写真左側)では、眠っているニンフ(女性の姿をした妖精)の裸体をサテュロス(男性の身体とヤギの足を持つ妖精)が覗き見しています。この覗き見の視線が相手に向ける欲望を表現しています。
他にも見染めた女性を男性の神様が強引に攫ったり、はたまた恋焦がれた男性を魔法で誘惑して手に入れようとする女性がいたり...一方的に想う相手に欲望を向けて強引な行動をする場面を描いた作品が並びます。そして時にはそのために片方・あるいは両方が命を落とす悲劇も...
また、よく見ると画面には愛の神(アモル)の姿が描き込まれているものもあり、これも「愛」であると示しています。
相手を想う感情=愛が生まれるということは「相手を知りたい」「手に入れたい」「支配したい」といった欲望につながっている。それを暗喩しているかのようです。時には暴力的なものにもなる「愛」の表現を見て、あなたはどう感じるでしょうか?絵を観る側の心境も問われているようです。
一方、キリスト教のモチーフを描いた作品でクローズアップされるのは「親子愛」や「自己犠牲」「神の慈愛」の要素。
幼い我が子・イエスを慈しむ聖母マリアを描いた聖母子像や、人々のためにイエスが罪をかぶって処刑された様子を描く磔刑図はその象徴であり、規範とされた考え方でした。
こちらの絵はリオネッロ・スパーダの《放蕩息子の帰宅》。聖書に登場する有名なエピソードを絵画化しています。裕福な家の息子が父にねだって財産を生前贈与してもらいますが、放蕩の末使い果たしてしまいます。困窮した息子は自分の愚かさを反省し、家に戻って「もう息子と呼ばれる資格はないが、どうか雇い人として家において欲しい」と父に懇願します。しかし父は息子を許した上にその帰りを喜び、祝宴まで開いて暖かく迎えた、というお話。父は神、息子は一度神に背いた人間を指しており、過ちを犯しても神はそれを憐み救ってくれる、神の慈愛を説く例え話だそうですが、この絵では親子の姿だけをクローズアップし、家族愛として描いているように見えます。
「放蕩息子」をはじめ、ここでは同じお話を題材に描かれた絵が複数並んでいるので、各画家が何を重視して描こうとしたのか見比べるのもおすすめです。
また、同じ家族愛をテーマとした作品でも、ちょっとドキッとしてしまうのが、牢獄で食べ物を与えられず飢えた父親に娘がこっそり母乳を飲ませるという場面を描いた《ローマの犠牲》。今の倫理観だと正直引いてしまう内容ですが、当時の考えでは「娘が我が身を呈して父を救う」、自己犠牲による家族愛と捉えられていたのです。時代による感覚の違いも、絵を通すと見えてきます。
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一方、17世紀のオランダや18世紀のフランスでは、神様ではなく一般の庶民の生活をモチーフにした風俗画も人気を集めます。ここではもっと人間くさい、もっと生々しい「愛」の形が描かれます。
今回26年ぶりに日本で展示となったフラゴナールの《かんぬき》はその代表作。男性が寝室の扉にかんぬき=鍵をかけ、今にも女性に強引に口づけようとする瞬間を描いています。女性は抵抗して顔を背けているような、でも身を預けているようにも見える複雑な表情。一瞬の間にはしる緊張感や人間の思考の逡巡が見事に描写されています。スキャンダラスでいわば俗っぽい題材だからこそ、人間そのものをリアルに描いているようにも感じる作品です。
(ちなみにこの絵、キリスト教の宗教画と対になるように描かれたのだそう。聖と俗を対比させようとしたのか、はたまた表裏一体と言いたかったのか...)
ユニークなのがオランダの画家、ホーホストラーテンの《部屋履き》。一見誰もいない部屋の絵ですが、入口には脱ぎ捨てられたような部屋履き(スリッパ)、扉は鍵が差しっぱなし。具体的に描かれてはいませんが、部屋の主の慌てた様子が目に浮かびます。あえて物語の主役となる人物を描かず、アイテムや情景から想像させるスタイルは、日本美術にも見られる表現です。
オランダの風俗画では人々の生活をリアルに描写しながら、身振りやモチーフなどで性愛の寓意を偲ばせる傾向があったそう。つまり「はっきり言わなくてもわかるでしょう(そういうことしてますよ)」というわけです。気づくとちょっと気まずくなる作品。露骨さを避けつつ鑑賞者に覗き見的な背徳感を感じさせ、人の欲望をかきたてます。
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最後の部屋では18世紀末~19世紀の新古典主義・ロマン主義の作品をピックアップしています。
この時代はフランス革命が起きるなど、それまでの社会の在り方が大きく変化していった時代。身分や立場より個人の感情や自由の尊重、あるがままの自然の賛美が叫ばれたり、また世俗の生々しさを嫌って洗練された無垢で美しいものを求めたり...そんな人々の心の揺れ動きも絵に現れていたようです。
(この部屋の作品は一般の方も撮影OKになっています)
《アモルとプシュケ》は、俗っぽい題材よりもギリシャやローマの神話などクラシックな題材に立ち返ろうとした新古典主義の代表作。ギリシャやローマの神話も、前に登場した絵を思うと結構俗っぽい気がしますが、この頃は無垢で美しいものの象徴として捉えられるところがあったようです。
この絵は人間の美しい少女・プシュケと愛の神・アモルが紆余曲折ありつつも結ばれる、ハッピーエンドのお話がテーマ。長閑な自然の風景を背景に初々しい姿で描かれた二人の肌はまるで陶器のようで生々しさを感じません。構図も相まって大理石の彫刻のような雰囲気に描かれています。
また、この頃は思春期の若者特有の、大人と子供の狭間にある中性的な体型は理想の美しい身体と考えられていたようです。それがよく表れているのが《アポロンとキュパリッソス》。美しい若者の姿の神アポロンと、美少年の狩人キュパリッソス。どちらも筋肉の凸凹表現は控えめで、いかにも男性という感じにしないよう描かれています。
※写真右は本展監修者でルーヴル美術館学芸員のソフィー・キャロンさん。
一方でロマン主義の時代は自分の感情を優先し、その結果不幸な結末を迎える、いわゆる悲劇的な愛もそのドラマティックさから好まれました。例え悲しい結末になったとしても自分の感情、「愛」に身を委ねられることが自由の象徴のように感じられたのでしょうか。
《ダンテとウェルギリウスの前に現れたフランチェスカとパオロの亡霊》は、イタリアの詩人ダンテの『新曲』の物語の一場面を描いたもの。不義の恋の末に殺されてしまったパオロとフランチェスカの魂が地獄をさまよう姿を、ダンテと案内役の古代ローマの詩人・ウェルギリウスが見つめています。例え許されぬ想いであっても相手への愛に殉じた男女の物語は当時から人気だったそう。破滅や死すら、「愛」のためなら美しいものと捉えられるのです。
キャロンさんによると、この作品はルーヴル美術館の所蔵品のなかでもとくに有名ですが、同時に表現が抽象的なため謎も多い作品なのだそう。背景を暗く塗りつぶすことで男女の身体を引き立たせ、斜めに配置することで画面に動きが生まれドラマティックに演出しています。よく見ると女性(フランチェスカ)が涙していたり、しっかりナイフで刺された跡まで描写されており、細かいところも見どころです。
ピンクを基調とした可愛らしいビジュアルやデザインが目を引く本展。しかし蓋を開けてみると、「愛」という言葉の中に潜む様々な感情、相手を想うが故に生まれる「こうしたい」という欲望の姿を絵を通じて突きつけられる、美しくもずしりと重く、ちょっと怖さも感じる内容でした。
「愛」は誰かを救いもするけど、破滅に導きもする。平静ならやらないような大胆な行動もさせるし、一方的な暴力にもなってしまう。高潔な行動をとらせもするけど、醜悪なことをさせたりもする。そんな「愛」の複雑怪奇さが時代を超えて西洋の画家たちを惹きつけ、絵のテーマとなり続けてきたのかもしれません。
「これは愛/愛じゃない」の基準は人や時代にとって異なります。絵に示された様々な「愛」の例は、自分にとっての「愛」は一体何なのか、改めて考えるきっかけになるのではないでしょうか。
展覧会は9月24日まで。