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【レポ】特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)

2024/05/08

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景

あの人もこの人も「雪舟」に通ず?!
雪舟が伝説となったワケとその影響力を体感。

京都国立博物館の2024年春季の特別展は「雪舟伝説」。日本で最も有名な画家のひとりともいえる室町時代に活躍した画僧・雪舟に注目した展覧会です。

この展覧会、タイトルが「雪舟」展ではなく「雪舟伝説」展であるところがポイント。
単に雪舟の作品を紹介する...だけではなく、雪舟がなぜ誰もが知る有名画家になったのか?雪舟が後世の画家や日本の美術にどんな影響を与えたのか?に注目した、ちょっとユニークな内容なのです。その展示の様子をご紹介します。

※本記事は2024年4月の取材時の内容に基づきます。観覧時期により、展示作品等の内容が異なる場合がございます。予めご了承ください。

雪舟ってどんな人?

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
《探幽縮図 雪舟筆自画像摸本》狩野探幽筆 江戸時代(17世紀)京都国立博物館蔵
雪舟の自画像を狩野探幽が模写したもの。
中国のお坊さん風の恰好なのは「中国に留学した画家」のアピールだったようです。

雪舟は1420年に備中(現在の岡山県総社市)に生まれ、幼いころに京都の相国寺に入りそこで僧としての修行の傍ら、室町幕府の御用絵師だった周文に絵を学びました。 その後周防(現在の山口県)に下り、大内氏の庇護を得ます。その後47歳の時、日本の画家として初めて中国・明に渡り、現地の画法を学んだ他、数多くの山水の名所を取材し、3年後に帰国。以降は周防を主な拠点に各地を旅しながら作品を残しました。
中国の宋元画に学んだ幅広い画風と骨太で力強い筆致、卓越した空間の構成力で「日本独自の水墨画」を確立したことで高く評価されています。

国宝6点そろい踏み!これが「雪舟の絵」だ!

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
国宝《慧可断碑図》雪舟筆 室町時代 明応5年(1496)愛知・斉年寺蔵(京都国立博物館寄託)
教科書にもよく載る、雪舟の人物画の名品。
抽象画のような背景の岩肌、達磨大師の白い服のコントラストなどが斬新。

雪舟の名前は聞いたことはあるけれど、作品はちゃんと見たことがない、という方も多いはず。そこで展覧会の第1章では、数ある雪舟作品のなかでも選りすぐりの代表作が紹介されています。
特に本展では、国宝指定を受ける雪舟作品6件が同時展示されています。ちなみに国宝指定数6件は一人の画家として最多なのだそう。これだけでも雪舟の評価が現在においても抜きんでていることがうかがえます。

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
国宝《秋冬山水図》雪舟筆 室町時代(15世紀)東京国立博物館蔵
力強い線描や墨の使い方など雪舟の山水画といえばこれ、という作品。
画面はとても小さいのですが、描かれた風景は雄大で広がりを感じます。


大体の教科書に登場する《慧可断碑図》《秋冬山水図》や、晩年の傑作《天橋立図》、全長16mもある絵巻《四季山水図巻(山水長巻)》、雪舟が中国留学の感想を讃にしたためた《破墨山水図》など、1点だけでも目玉になりそうな作品がそろい踏み、しかも通期で楽しめます!ここを見ておけば、雪舟の絵のスタイルもある程度把握できるはず。
国宝以外でも、唯一の花鳥画とされる重要文化財《四季花鳥図屏風》もあり、雪舟の表現力の幅広さも感じられますよ。

Sesshu2024_repo(5).jpg特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
重要文化財《四季花鳥図屏風》雪舟筆 室町時代(15世紀)京都国立博物館蔵
落款は無いものの、近年の研究で雪舟筆と考えられている珍しい花鳥画。
岩や木々は山水画調、鳥は中国絵画風で、身につけた様々な画法をミックスしたような作品に見えます。

日本の水墨画は中国の水墨画をそのまま模倣したり、繊細でまとまった構図が多かったところ、雪舟はそれを打破するように筆の勢いをそのまま残した力強い線描、スケール感たっぷりの構図や大胆なモチーフの配置、墨の濃淡のコントラストなど、自分のオリジナリティを前に出した描き方をしました。これが後の画家たちに引き継がれ、日本の水墨画・山水画のベースとなっていきます。

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
右手前が伝雪舟筆《富士三保清見寺図》。
現在は雪舟が描いたものを別の人が写したものと考えられていますが、江戸時代には雪舟直筆として有名だったそう。

続く第2章では、その後の画家たちに雪舟筆として重んじられた作品を紹介。 特に《西湖図》や《富士三保清見寺図》は頻繁に模写されたり参考作品として用いられており、今後に登場する作品にも繋がるので、要チェックです。
これらは現在の研究では雪舟自身が描いたとは言い切れない「伝雪舟筆」とされている作品。 それでも「これは雪舟の作品だ!」と考えられ、多くの画家の手本として大切にされてきたという歴史の重みがあります。それだけ雪舟の絵のスタイルは人を惹きつけ「こんな絵を描きたい!お手本にしたい!」と思わせる存在だったのでしょう。

もはや近世日本絵画のオールスター!豪華ラインナップで感じる雪舟の影響力。

第3章以降では、雪舟の絵に学んだその後の画家たちの作品が登場します。そのラインナップは長谷川等伯、狩野探幽、尾形光琳、円山応挙、曾我蕭白、伊藤若冲...と、中世〜近世の日本美術を語る上でもはやオールスターともいえる豪華さです。あの人も!この人も!状態で、どれだけ雪舟がお手本・バイブルとして影響力があったのかが感じられます。先に見た雪舟の作品と比べることで、どこを意識したのか、学んだのかを探して見るとより楽しめますよ。

「雪舟の後継者」雲谷等顔と長谷川等伯

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
雲谷派の展示室。金泥を塗るなど表現はアレンジされていますが、ほぼ雪舟そっくり。

残念ながら雪舟の直弟子の画系はあまり長く続かなかったようですが、桃山時代には直接ではなくとも雪舟の絵に学びその画風を受け継ぐ作家が出てきます。 そのひとり、雲谷等顔は、雪舟が拠点としていた周防の地を大内氏の後に治めた毛利家のお抱え絵師。彼はかつて雪舟が使っていたアトリエ(雲谷庵)と《四季山水図巻》を毛利家から拝領したことで彼の流派は名実ともに雪舟の後継者の位置づけとなり、雪舟の画風を受け継いだ作品を描きました。

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《竹林七賢図屏風》長谷川等伯筆 桃山時代 慶長12(1607)年 京都・両足院蔵
等伯のサインは左隻の左上にあります。

一方、雲谷派と同時期に活躍し、雪舟の後継者を"自称"したのがあの長谷川等伯。今回展示されている《竹林七賢図屏風》には、「自分は雪舟から数えて5代目です(自雪舟五代)」のサインが見られます。 等伯は祖父の代から続く絵師の家系でしたが、その祖父が雪舟流の絵を雪舟の弟子筋から学んでいたといい、その画風を受け継いでいました。等伯は絵を学ぶ過程で雪舟の画風に触れ、憧れやリスペクトを抱いていたことが想像できます。
また、等伯は狩野派が画壇を仕切っていた時代に、自分の流派を立ち上げて活動した人でした。だからこそ自分の画風は正統なものとアピールする必要があり、雪舟の名を借りたのでしょう。当時から「雪舟」という画家がステータス扱いされるほどに高く評価されていたことが伝わります。

雪舟をカリスマ化した立役者、狩野探幽

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景

雪舟を「画聖」として神格化し、多くの人にその名が広まる上で大きな役割を果たしたのが、狩野派、特に狩野探幽でした。探幽は、自分の画風を確立する際に大きな拠り所としていたのが雪舟の作品。探幽は若いころから雪舟を深く尊敬し、雪舟作とされる絵を数多く模写や縮図(小さくスケッチしたもの)を描き、雪舟の画風を自らに取り入れて‟継承"しました。

探幽がまだ若い頃に描いたという《山水図》などを見ると、全体の構図や山の形は伝雪舟の《西湖図》を思わせたり、建物や人、船の配置は《四季山水図巻》にも似ています。何かの折に見せてもらった雪舟の作品を大いにお手本にしたことがうかがえます。

歴代の権力者の御用絵師を務める一大勢力だった狩野派のなかでも、徳川家のお抱えとなった探幽の画風はその後の狩野派の主流となります。そして江戸時代に活躍した日本の多くの絵師が狩野派の画法を基礎として学んだり取り入れていたことで、絵師たちは間接的にも雪舟の画風に触れ、より広く受け継がれることになったのです。

‟型"となった「雪舟」の富士山

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景

雪舟の後世への影響力の強さを特に感じさせるのが富士山図です。

探幽は数多くの富士山図を描いたそうですが、その中でも特に大きな作品として知られる《富士山図》は、明らかに2章で展示されていた伝雪舟筆《富士山美保清見寺図》と、構図がそっくりです。絵の左寄りに富士山を大きく描き、右手前に三保の松原や湖、左手前に麓の清見寺をバランスよく配置しています。雪舟スタイルの富士山図の手本として《富士山美保清見寺図》が大いに参考にされたことがわかります。(この作品は大名に求められて描かれたものだそうで、その点からも「雪舟風」の高い評価や需要が伺えます)

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
この展示室、壁側に並ぶのはほぼすべて「富士山図」!

そして他の絵師たちも、探幽と同じく伝雪舟筆の「富士山図」の構図を受け継いでいくのです。
展示室には、そんな富士山図ばかりを集めた場所があります。

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
《富士山三保図屏風》曾我蕭白筆 江戸時代(18世紀)滋賀・MIHO MUSEUM蔵
構図やモチーフの配置は雪舟風を踏襲しつつ、画面幅を広げパノラマにした曾我蕭白の富士山図。
右隻に虹を描き加えているところも面白い作品。

京狩野の狩野山雪や、強烈な個性ある絵で知られる絵師・曾我蕭白も、「左寄りに富士山を描いて手前に山や湖を置く」同じような構図の富士山図を描いています。驚くことに、これは幕末・明治期の画家にまで続いているんです!

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景

さまざまな画家たちに流派も時代も越えて描き継がれた雪舟風の富士山図が、もはや富士山図の"型"、テンプレートのようになっているのです。むしろ、その"型"の中で自分の個性を如何に見せるか、を工夫しているようにも見えてきます。現在でも、大喜利やネットミームのように「決まったお題・流行のパターン」を踏襲しながらアレンジを加えて新しいものを創り出す流れはありますが、それにもどこか通じます。

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景

富士山図のほかにも、「雪舟」を後世の画家がどのように受容したか、リスペクトしていたかが伝わる作品が例が並びます。富士山図のように雪舟作品のモチーフや構図を取り入れる、作品の模写・摸本を作る、筆致などの画風を学ぶ、雪舟にあやかった雅号(ペンネーム)をつけるなど、その方法はさまざま。

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特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)展示風景
《初宮参図巻》勝川春草筆 江戸時代(18世紀)北海道・似鳥美術館蔵

ユニークな作品が、江戸後期の浮世絵師・勝川春草の《初宮参図巻》。武家の娘のお見合いから結婚、子供を授かってお宮参りにいくまでを描いた春画ですが、武家の寝室を描いた場面には床の間に飾られた《破墨山水図》のような水墨画と、傍らに「雪舟筆」と書かれた箱が描き込まれています。これは「この物語のお武家様はあの雪舟の絵を持てるくらいのお偉いさんだよ」と示す演出だそうです。
まさか春画の小道具に使ってしまうとは驚きですが、同時にこの絵を見た人が「あの雪舟を!」と思うことが前提にできるほどに、江戸時代には雪舟の名が「すごい画家」として世間に認知されていたことがわかります。

まとめ

雪舟はその絵自体も素晴らしいのは確かですが、何よりその後に連なる画家の数の多さ、数百年に及ぶ影響力の強さに驚かされました。
今まで名前を知っている、どこかで見たことのある江戸時代以降のほとんどの画家は、間接的であっても何かしらのかたちで「雪舟の弟子」といえるのかもしれません。
一人の天才が革新を生む、ということはしばしばありますが、あとに続いていった人の多さがこれほど多いこと、それこそが雪舟という人と作品の評価、価値になっているのでしょう。一人の画家の画風がこれほどまでに多くの人に、時代も流派も超えて受け継がれ、息づいていったのか。歴史と表現の広がりのスケール、そして面白さに圧倒される展覧会でした。

なお、この展覧会は5/26まで、京都のみでの開催です。ぜひ会期中にご覧ください!

特別展「雪舟伝説-「画聖(カリスマ)」の誕生-」(京都国立博物館)

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