【レポ】美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展《京都展》(白沙村荘橋本関雪記念館)
「美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展」《京都展》展示風景
「伊那谷(いなだに)」って知ってますか?
伊那谷とは、日本のほぼ中央、長野県の南にある盆地。周囲を南アルプスや中央アルプスに囲まれ、天竜川に沿って南北に延びる、自然豊かな山間の地です。鉄道ファンには秘境駅の宝庫として知られているそうで。といっても決して人里離れた場所というわけではなく、関東と関西を結ぶ街道が通る交通の要所として古くから東西のさまざまな文化や人々が集う場所にもなってきました。古くは万葉集に地名が登場したり、富岡鉄斎などゆかりのある芸術家もいます。
そんな伊那谷の地をアートの力でアピールしよう!という企画展が、今回ご紹介する「美術と風土〜アーティストが触れた伊那谷展」です。
「美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展」《京都展》展示風景
奥にあるのは柴田知佳子さんの作品。
伊那谷には夏に訪問されたとのこと。果物畑、雨の靄と翌日の青天、緑の木々など、現地で自らの身体で感じたことを作品に落とし込んでいます。
この展覧会は、伊那谷のある長野県をはじめ、近畿や東海など各所の美術館の学芸員さんや画廊主さんによる実行委員会が中心となって企画したもの。現在日本のアートシーンで活動している60歳以下の若手・中堅の作家20名に実際に伊那谷の地を訪れてもらった上で、そこで得たインスピレーションから作品を制作してもらうという試みです。
土地をテーマとしたアート企画展はこれまでも行われており、新潟の「大地の芸術祭」や岡山・香川の「瀬戸内国際芸術祭」などが有名です。しかし「伊那谷展」はテーマとなった土地に作品を見に来てもらうのではなく、敢えて外の地域にも飛び出して巡回展を行うというスタイルを採っています。
これは「土地そのものは動かせなくても、美術作品は他の場所に持ち込むことができる。その土地を訪れることが難しい地域の人にも、土地の魅力を作品に込めて伝えることができる」という発想から。
また、展覧会をきっかけに作家と鑑賞者、そして展示を行う会場や設営を担当する学芸員といった仲介者が交流し、様々な地域の人が交わることで新しいものを生み出したり発見する機会をつくることも、巡回展という形をとった理由なのだそうです。
20人のアーティストがアートで伝える、土地の感触。
巡回展の4番目にあたる京都展の会場は、日本画家・橋本関雪の邸宅でもあった白沙村荘橋本関雪記念館。美術館棟の3つの展示室に主に絵画作品が、屋外や庭園内にある存古楼(橋本関雪の元アトリエ)の建物に立体・インスタレーション作品が展示されています。
自然光や石畳、和風建築や庭の緑などこの空間ならではのコラボレーション、会場によって異なる作品の見せ方も見どころです。
残念ながら20名分の作品全てをご紹介するのは難しいので、内覧会時にお話を伺えた方を中心にその一部をご紹介します。
こちらは京都出身で刺繡を用いた造形作品を制作している宮田彩加さんの作品。宮田さんは伊那谷には全く縁がなく、今回の企画で初めて訪れたそう。「天竜川は今まで見て来た鴨川などとは全然違って荒々しくて、川の印象を覆されました。真夏の盛りに行ったので、暑さの中途中で道に迷いかけたりなかなか壮絶な体験をしました(笑)」と取材時の様子を語ってくださいました。
作品のモチーフになったのは偶然見かけたというポピーの花。花の赤色が大変鮮烈に感じ、その印象を天竜川や空の青、草木の緑と併せて作品化されています。背景には鳥や花のプリント生地の端切れが縫い合わされていますが、これは現地の方が「伊那谷の景色はパッチワークのように様々なものが混ざりあっている」と仰っていたことからインスピレーションを得たそう。宮田さんの伊那谷で過ごした一日が凝縮したような作品になっています。
日本画家の野原都久馬さんも伊那谷には初めて訪れたのだそうです。そんな彼の作品は、画面を埋め尽くす満開の桜と、目の覚めるような青空と雪を讃えた日本アルプスの山々を描いた大作2点。「取材はちょうど桜が満開の時期で、そこで見た空と景色が溶け合ったような風景に感動して、その感覚を絵に描こうと思ったんです」と野原さん。
山並みの絵に関しては、キャンバスを一面青色で塗り、それを主線として残しながら他の色を乗せていくことで空の青が景色に混じる様を表現されています。「普段は大都市を描いているので自然をモチーフにしたのは初めて。非常に新鮮で、感動と衝撃を受けました。行って良かったです」とのこと。
同じく初めて伊那谷を訪れた日本画家・川島渉さんの作品。川島さんは4日ほど伊那谷に滞在し、昼夜双方の景色を取材したそうです。「日中の"見える"世界より、夜の"見えない"世界に心惹かれた」という川嶋さん。川は昔から龍に例えられることから、伊那谷を流れる天竜川を地の龍、夜空の天の川を天の龍に見立て、川の流れと星の輝きのイメージを黒と銀のネガポジ作品に落とし込んでいます。
「作品は対にしてほしいという条件があったので、現地で対比性や関係性を考えながら作りました。これは作家が実際に現地で見て感じないとわからないことなので、今回の企画ならではの作品に出来たと思います」と仰っていました。
海野厚敬さんは、現在は京都在住ですが元々伊那谷のある長野県の出身で、土地に縁のある作家さんです。海野さんは伊那谷の食文化に注目。「伊那谷では蜂を食べる習慣があって、(取材では)それを紹介する蜂の博物館を訪れたのですが、これをきっかけに蜂が作品のテーマになりました」とのこと。絵具などを塗り重ねた画面をひっかく手法で描かれた作品には、よく見ると蜂や花の姿が見えます。キャンバスという"土地"から養蜂という文化が生まれ出ているような、力強さを感じます。
山田純嗣さんは、伊那谷のある長野県飯田市出身でまさに"地元生まれ"のアーティスト。著名な作品を立体化し、それを撮影した写真を版画にして平面に戻すという手法で作品を制作しています。今回は同じく伊那谷の出身で明治期に活躍した日本画家・菱田春草の作品から代表作《菊慈童》《黒き猫》を引用。《黒き猫》は立体版も一緒に展示されています。
元の春草の絵では幻想的にぼかされていた背景が、山田さんの版画でははっきりと伊那谷の風景を思わせる写真的な表現になり、よく見ると線画で描かれた草花などがテクスチャのように重ねられています。作品を通して時代の異なる画家同士や鑑賞者が景色や感覚を共有しているかのような、多層的な作品です。
林繭子さんは混ぜ合わせた絵具を心の赴くままにキャンバスにのせていく抽象的な作品を制作されています。伊那谷には学生時代に伊那谷を訪れたことがある他、よく車で通っていたので土地勘はおありだったそう。ただ、今回の制作にあたっては今までと違う角度で伊那谷を見てみようと、敢えて電車を使って秘境駅を訪れるなどされたとのこと。そして制作された作品は、昔見た伊那谷の記憶と取材で新たに感じた印象を取り混ぜたものになったといいます。
「普段は本当に感覚的に作品を作っているので、もっとはっきりした色も使うんです。でも今回は"伊那谷"のイメージを意識したためか、普段より青や緑が中心の作品になりました」と林さん。心の赴くままに描く作品だからこそ、作家さんが伊那谷に対して感じたものがそのまま現れているようです。
「美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展」《京都展》展示風景
手前は自然の風景と植物をモチーフにした銅版画を制作している野嶋革さんの作品。こぼれるような日の光と繊細な植物の表現が印象的です。
「普段は具体的に場所を決めていないが、今回は敢えて「伊那谷」と特定の場所を作品化することで自分としても発見がありました」と仰っていました。
作家さんごとに訪れた時期もシチュエーションも異なり、注目したポイントもさまざま。全く縁もゆかりもなく初めて訪れた方もいれば、生まれ故郷だったり親戚がいたり生活圏が近かったり、中には尊敬する人の出身地ということで縁を感じていらっしゃるという作家さんもいました。表現の仕方も、自分が個人的に追求しているテーマに沿った形で伊那谷を解釈した方もいれば、カルチャーショックを受けてそれまでとは違うモチーフを取り入れ新境地を拓いた方もおり、千差万別です。
このような多種多様な反応が「伊那谷」という同じ土地から生まれたということは、それだけ伊那谷が様々な要素や魅力を持つ豊かな土地であることでしょう。伊那谷のさまざまな顔が、作品を通じて浮き彫りにされているようでした。
また、来場されていた各作家さんのお話を伺うと、共通して「行って良かった」「この企画の縁があってよかった」という言葉が出ていたのが印象的でした。参加アーティストは皆、それぞれにとって確実に「伊那谷の地から得たもの」があったのでしょう。アーティストと土地、美術と風土の幸せな関係性を感じました。
「美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展」《京都展》展示風景
手前の魚と真ん中にある白いオブジェは金属や鉱物を使った造形作品を手掛ける今井裕之さんの作品。伊那谷のフィールドワークで知った現地の生き物たちからインスピレーションを得て制作されています。
アーティストにその土地に関する作品を作ってもらうことで土地の魅力を多くの人に伝える。それが土地をテーマにしたアート企画の主要な目的です。ではなぜ、土地の魅力をアートで伝えるのか。それは、アートというものは「必ず作り手の感情や心境が媒介して生まれるものだから」ではないでしょうか。
その土地で見た青空が普段よりもずっと明るく濃く感じたり、小さな生き物が実際の大きさよりも大きく感じたり、その辺の草花が実際よりずっと鮮やかで強く見えたりする。暑さや寒さ、湿気や空気の流れ、匂いも...そういった土地から受け取った個々人の感覚も、アートなら具体的なかたちとして描き留めることができます。
過去作品の「ソローの小屋」(2020年)と、伊那谷を訪問して制作した天竜川をモチーフにしたドローイングなどを併せて展示されています。
土地を見て得られる感動や感覚といった目には見えないものも、その土地が人に与える大きな魅力です。アートなら、目に見えるものも見えないものも、同時に作品の中に表現し、観る人に伝えることができる。作品を通じてその伊那谷を訪れたアーティストの見たものだけでなく、感動や感覚も、鑑賞者は疑似体験することができるのです。
「伊那谷展」の掲げる美術と風土の関係性は、そんなアートというものの存在意義にも繋がっているように感じます。
各アーティストたちが、絵や作品を生み出したきっかけとなった伊那谷は、一体どんなところなんでしょうか。いつか、その景色を自分の目でも見てみたい、触れてみたい。そんな興味が湧いてくる展覧会でした。
展覧会概要
■ 美術と風土~アーティストが触れた伊那谷展(白沙村荘 橋本関雪記念館)
京都での展示は2023/8/13まで。(9/5からは愛知県碧南市の碧南市藤井達吉現代美術館に巡回します)