【レポート】特別展「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
入口では登山家スタイルの光瑶さんが出迎えてくれます!
明治後期から昭和前期にかけて京都を中心に活躍し、鮮やかな色彩で独自性に富んだ華麗な花鳥画を数多く残した日本画家、石崎光瑤(いしざき・こうよう)。
その画業の全貌を辿る全国規模初の大回顧展が、京都文化博物館で開催されています。
1884年に富山で生まれた光瑤は19歳で京都の竹内栖鳳に師事。文展・帝展などの展覧会で受賞を重ね、戦前の京都画壇の中心的地位を築きました。また、日本最難関の山とされる剱岳に民間で初めて登頂を果たしたり、ヒマラヤ山脈に登ったりと登山家としても活躍しています。しかし戦後すぐに没したこともあり、その後は故郷の北陸以外ではあまり取り上げられる機会がなく、半ば埋もれた状況になっていました。
本展は2024年、光瑤の生誕140年を迎えることを機に企画されたもので、光瑤の故郷・富山にあり光瑤作品を多数所蔵している南砺市立福光美術館の所蔵品を中心に、各地にある代表作が、京都に集結!再び、光瑤にスポットライトが当たることになりました。
今改めて注目が集まっている石崎光瑤の絵画世界とは、どんなものなのでしょうか?
※本記事は9月に行われた京都展の内覧会での取材内容を中心に、追加取材を加えて構成しています。観覧時期により展示内容が異なる場合がありますので、予めご了承ください。
華麗なる花鳥画が魅せる、眩き色彩・装飾、そして人生のハーモニー
展示は4階と3階の2部構成。凡そ時系列順で、光瑤の生涯と画業を追いながら、画風の変遷をたどっていく流れとなっています。随所に光瑤のスケッチや周辺の人々との交流を伝える手紙などの資料が登場し、光瑤の人となりに触れながら作品を楽しめます。
師匠と山の自然に学んだ若き日
光瑤は美術に関心の高かった父の勧めもあり、12歳で当時金沢に住んでいた江戸琳派の絵師・山内光一のもとで本格的に絵を学び始めます。光瑤の号はその時貰ったもの。さかのぼれば「光」の字は尾形光琳の繋がりなんですね!
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《富山湾真景図》明治31年(1898)頃 南砺市立福光美術館蔵
こちらは10代半ばの頃に描いたという六曲一双の大作《富山湾真景図》。細かな波の表現と鳥観図風のダイナミックな構図が見事に調和し、光瑤のずば抜けた才能を伺わせます。
その後、光瑤は19歳で京都に出て、竹内栖鳳の画塾「竹丈会」に入ります。当初は別の画家も候補にしていたそうですが、栖鳳の写生表現に感銘を受け「学ぶならこの人に」と強く決めていたそう。その際、同じ栖鳳門下の土田麦僊など同年代の画家たちに出会い、その絆は生涯続くことになります。
しかし明治39年(1906)に父が亡くなったため、光瑤は一旦地元の富山に戻ります。麦僊ら同門の友人たちは栖鳳が設立に関わった京都市画学校(現在の京都市立芸大の前身)に入学しますが、光瑤はそれが叶いませんでした。
そんな光瑤の支えとなったのが登山!光瑤はその年の夏以降登山に没頭。明治42年(1909)には民間パーティーとして初めて剱岳登頂に成功し、日本の登山史にもその名を刻んでいます。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《立山写生 巻二》(部分)明治41年(1908) 富山県美術館蔵
植物研究者の方からは、花は立体的なので実物、茎や根は標本を写生して組合せたのでは、と指摘されているそう。
光瑤は山に登るたびにそこで見た草花や山の風景を写生し、カメラで撮影して観察するなど、独学で絵を続けていたそう。会場には光瑤のスケッチがそこかしこに登場しますが、草花は花だけではなく根の先まで丁寧に描かれ、まるで植物図鑑のよう。学者のような視点を光瑤が持っていたことを伺わせます。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《筧》大正3年(1914)南砺市立福光美術館蔵
写真ではわかりづらいですが、背景は全面金泥塗り。春の陽光のように柔らかい光を放ちます。
花で画面を埋めた左隻と、隙間から燕が見える右隻の対比もポイント。
5年後、光瑤は再び京都に出て竹丈会に復帰します。師・栖鳳は当初光瑤のブランクによる遅れを心配したそうですが、鍛錬を怠らなかった光瑤の画力は衰えるどころかめきめきと伸び、1914年には《筧》が宮内省の買上げとなり華々しく画壇デビューを飾ります。師匠に直接学べなかった時期も、光瑤には山や自然という心強い"師"がいたのです。
インドへの旅と新しい日本画
大正5年(1916)、光瑤は新しい自分の表現を求めてインドを旅し、古代の遺跡や熱帯の動植物などを取材・写生しました。また、登山好きの光瑤にはヒマラヤ山脈は外せないスポット。旅の途中、光瑤はマハデュム峰(富士山より高い標高3966m!)に日本人として初めて登頂成功するという偉業を達成しています。
当時、京都画壇ではまず海外に行くならヨーロッパが主流で、敢えてインドに行った光瑤は珍しい存在だったようです。ましてや、ヒマラヤに登った画家はそうそういません。この経験は光瑤の他にない個性となります。
そして生み出されたのが、本展の目玉で光瑤の代表作《熱国妍春》(文展特選)と《燦雨(さんう)》(帝展特選)。実際に現地で体験した熱帯の自然を見事に活写した傑作です。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《熱国妍春》大正7年(1918)京都国立近代美術館蔵【展示期間:9/14~10/14】
《熱国妍春》は生い茂る葉が画面を覆いつくし、見る側もジャングルに飲み込まれそうな感覚になります。右は葉の線をくっきりと描くことで目の前に葉が迫ってくるような立体感が。左は逆に線を描かない没骨技法で、湿気でけぶる空気やその中ではっきりと見える花の赤や、隙間から飛び出す極楽鳥が際立ちます。
※《熱国妍春》は京都会場では10/14までの公開
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《燦雨》大正8年(1919)南砺市立福光美術館蔵
《燦雨》は画面いっぱいに鮮やかなオレンジ色の花が咲き乱れる極彩色空間。突然のスコールに驚く飛び回る色鮮やかなインコたち(元になったスケッチには「ラブバアド」という名が)は躍動感たっぷり。金色で描かれた雨の線は、光を照り返してきらきらと輝き、湿度や熱気も伝わってきます。時間を忘れて見入ってしまう美しさです。
異国の自然をモチーフにした、そして画面を埋め尽くすような濃密で装飾的な花鳥画は、まさに新時代の花鳥画と言っても相応しいもの。光瑤は近代京都画壇を代表する画家としてその地位を確立しました。
伊藤若冲に憧れて
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
光瑶がヨーロッパを旅した時のスケッチや手記、友人との手紙なども展示されています。
手記にはミラノでダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見た感想なども。
真ん中はゴッホの主治医で美術コレクターだったガシェ医師の家を訪ねた時のスケッチ。なんと鶏小屋!
その後光瑤は大正11年(1922)にはヨーロッパを周遊。仲の良い画家仲間とともにイタリアやフランス、スペインと各地を巡り、教会の壁画や美術館、印象派の画家のゆかりの地などを訪れ、写真の撮影やスケッチを行いました。当時の資料も展示されており、フレスコ画など洋画の表現にも興味をひかれている光瑤の様子が伝わります。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《鶏之図(若冲の模写)》1926年 高山市郷土博物館蔵 ※写真は前期展示
光瑶が発見した《仙人掌群鶏図》の模写。若冲の絵の持つ雰囲気が見事に写されています。
一方で光瑤は日本や中国の古画の研究にも取り組んでおり、なかでも光瑤が憧れたのが伊藤若冲でした。今ではすっかり有名になった若冲も、光瑤の時代はまだ知る人ぞ知る...という知名度だったそう。その時期に光瑤はいち早く若冲の研究に取り組み、大正14年には《仙人掌群鶏図》(重要文化財)を発見して世に紹介しています。
展示では、光瑤が模写した若冲の鶏図や、構図の研究資料も見ることができます。写生に基づく緻密さと装飾性を活かした若冲の絵は光瑤の大きな目標だったことが感じられます。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑤《雪》大正9年(1920)南砺市立福光美術館蔵
光瑤の若冲学習がよく感じられる作品が《雪》。高さ2.5m近くもある巨大なもので、画面構成や鮮やかな色彩、濃厚で緻密な描写は若冲の《動植綵絵》を彷彿とさせます。くっきりとした白と青の色の対比も印象的です。この絵を見た土田麦僊が左隻の雪の重みで曲がった枝の描写を絶賛した手紙も展示されています(麦僊曰く「この絵が(帝展の)特選にならなかったなんて不思議だ!」とのこと)
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑤《白孔雀》大正11年(1922)大阪中之島美術館蔵【展示期間:10/1~11/10】
また《白孔雀》も背景に敷き詰められた葉や花の描き方はどことなく若冲風味。背景を濃色にして真っ白な孔雀を際立たせるところにも若冲の影響が感じられます。それでいて足元の緑は洋画のフレスコ画風だったり、孔雀の羽は洋風のレースのようだったり...インド、日本、ヨーロッパ、光瑤が学んだ要素がひとつにまとまっているかのようです。※《白孔雀》は京都会場では10/1から展示
密度の時代から洗練の時代へ
その後も光瑤は古画の画風を取り込み自分のものにしていきますが、次第に特徴的だった画面の密度がそぎ落とされ、より洗練された表現へと移り変わっていきます。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《笹百合》昭和5年(1930)南砺市立福光美術館蔵
特に4階から3階に移ると、その変化の大きさに驚かされるはず。
あれだけ画面を埋め尽くしていたモチーフはなくなり、背景にはあまりものを描かずシンプルですっきりした作品が多く、少々古風な感じも受けます。しかし対称的なモチーフの配置や、抽象的なまでにデフォルメされた土破など、モダンな表現も随所に見られるところがポイントです。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑤《虹雉》昭和9年(1934年)金剛峯寺(奥殿襖絵)
3階最大の見どころは、今回が寺外初公開となる高野山金剛峯寺の奥殿襖絵です。普段も一般公開されていないため、今回見られるのは貴重な機会!しかもお寺の空間を再現した展示の仕方になっているので、光瑤の意図した絵の見え方を味わえる仕様になっています。
襖絵制作を依頼された光瑤は、「金剛峯寺」の"金剛"からかつて訪れたインドのダージリン(金剛宝土)を連想し、ダージリンの風景を題材に選びます。そしてこの絵のためにわざわざインドを再訪し、現地取材も行いました。遠くに描かれた白い雪を被った山並は、ダージリンの街から見えるヒマラヤ山脈です。
《虹雉》にはうねるように伸びる木とそこで羽を休める雉(ネパールキジ)、そして全体に現地に咲くヒマラヤシャクナゲの花が散りばめられています。シャクナゲは一つ一つは緻密に描かれていますが、なんだか配置は絵を飾り付けた模様のようにも感じます。
また、木の枝は途中でちぎれたり90度に曲がったりしていて、なんだか不思議な趣。これは京狩野の奇才として知られる狩野山雪の影響と言われているそうです。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
さらに時代が下ると、光瑤の絵は主線がさらに細く繊細なものになります。晩年近くには光瑶は中国の古画に強く関心を持っており、その画風をとりいれていたとのこと。新しい表現を常に模索し続け、勉強熱心だった姿勢が伝わってきます。
「生誕140年記念 石崎光瑤」(京都文化博物館)会場風景
石崎光瑶《晨朝(しんちょう)》昭和14年(1939)富山県美術館蔵
毎朝4時起きして熱心に写生していたという牡丹を主題にした作品は、触れるとガラスのように壊れてしまいそうなほどの静謐さを称えています。
むせかえるような熱帯の空気、遠くそびえる世界で一番高い山並み、見たこともないような美しい花や鳥たち。見ていると異国の地がそこにあるような、見ている自分が飲み込まれるような作品がそこにありました。こんなにも色鮮やかで華麗な絵を描く人がいたとは!会場を一周しただけですっかり魅了されてしましました。
光瑤の画風は、前半と後半で変化してはいますが、鳥や花など描かれているモチーフは緻密でリアルなのに、現実ではなく夢の中にいるような煌びやかさ。この方向性は貫かれているように感じました。
光瑤は師匠に学んだ徹底的な写実、琳派や若冲など古典絵画の研究で培った技と、登山や写真を通じて育んだ観察眼、そして彼の人生の中で積み重ねてきたものから、自分の考え得る美しい理想の世界、一言で言えば「写実」と「装飾」の世界を生み出してきたのでしょう。石崎光瑤の人生の物語を知った上で見ると、さらに絵の魅力が増して感じました。
まだ光瑤は京都での交友関係など不明な部分も多いそう。今後の研究でまた光瑤の新しい一面や作品に出会える機会が楽しみでなりません。
京都展の開催は11/10まで。(その後は静岡会場へ巡回予定です)