【レポ】生誕140年 竹久夢⼆のすべて 画家は詩人でデザイナー(福田美術館)
福田美術館の夏~秋展は、大正ロマンの代表的画家・竹久夢二の特別展が開催!
実は福田美術館には、かつて夢二と直接交流があった故・河村幸次郎氏(下関市立美術館名誉館長)によるコレクション「旧河村コレクション」が所蔵されています。旧河村コレクションは、肉筆の日本画から、版画シリーズ、油彩画、挿絵、楽譜表紙や雑貨・文具等の商業デザイン、貴重なスケッチ類まで網羅されている点が特徴。展覧会も、画家でありグラフィックデザイナーでもあり、文芸でも才を発揮した竹久夢二の幅広い活動の全体像を把握できる内容となっています。
2024年、竹久夢二が生誕140年を迎えることを機に、この「旧河村コレクション」の作品と資料約200点を一挙公開しようというのがこの展覧会です。ここまで大量の夢二作品を一度に見られる機会は、関西では約30年ぶりとのこと。
その展示の様子をご紹介します。
※この記事は2023年7月時の取材を基にしています。観覧時期により展示内容が異なっている場合がございますので、ご了承ください。
竹久夢二の代名詞「夢二式美人」
冒頭ではまず、竹久夢二が特に多く手掛けた美人画を中心に紹介。夢二式美人は、背が高く、目が大きく、手が大きめで、それでいてどこか儚げな憂いを帯びた表情が特徴。どこか忘れがたい印象深さがあります。
夢二自身は特定の画家に師事したわけでもなく、美術学校に通ったわけでもなく、絵についてはほぼ独学でした。一時は美術学校も志したようですが、夢二から相談を受けた洋画家・岡田三郎助が、夢二が既に自分の世界観やタッチを持っていたため、学校でアカデミックな絵画技法を学ぶより個性を伸ばした方がいいと助言されたことも大きかったそう。学校では夢二の絵の個性がむしろ型にはまって失われてしまいかねないと岡田は危惧したのかもしれません。
夢二は積極的にスケッチを行い、また海外の絵画資料なども参考にしながら研鑽を積むことで、個性的で情感溢れる独自の美人画を生み出したのです。
女性たち、キリスト教、榛名山―夢二が愛し描いたもの
夢二の愛した女性たち
「夢二式美人」の背景には、夢二の人生に深くかかわった女性たちの存在がありました。
夢二は絵やスケッチのモデルとして身近な存在である自分の恋人(妻)を描くことも多かったようで、彼女たちを描いた作品も数多く残されています。
展示室にある額に入れられた女性の寝顔のスケッチ(写真真ん中)は、最初の恋人で唯一籍もいれた妻・たまきを描いたもの。たまきは「夢二式美人」の基礎となった存在でした。喧嘩をしてふて寝をした彼女の表情を描き留めています。夢二は様々な表情を描きたいがために、時にはわざと相手を怒らせることもあったとか。勉強熱心といえばそうですが、やられた方には正直ちょっと迷惑かもしれません。実際たまきとは結婚後喧嘩が絶えず離婚してしまったそうですが、その後も別居と同居を繰り返し、二人目の恋人・彦乃が現れるまでは関係は続きました。
下に展示されている手紙は、三人目の恋人、お葉(本名はかねよ)に宛てたもの。お葉と出会った当時、夢二は二人目の恋人・彦乃と強引に引き離された状況で、その落胆ぶりを心配した友人たちが絵のモデルとしてお葉を紹介したそうです。
お葉へのラブレターは大変情熱的で美しい言葉が並んでいますが、なんとこの時お葉はまだ15、16歳だったとか。お葉はその後夢二の専属モデル兼パートナーとして関係を続けましたが、彦乃を忘れられない夢二の様子に苦しみ、別れを選択することになります。
そして夢二の中で最も人生に影響を与えた最愛の存在が、二人目の恋人・彦乃でした。
愛と嘆きの《青春譜》
彦乃は元々夢二のファンで、19歳の時に絵を学びたいと夢二に相談したことがきっかけで出会います。夢二と彦乃の交際関係が明るみになったとき、彦乃の父は既に彦乃には許嫁がいたこと、夢二がたまきとの間に子供がいたことなどもあり、猛反対。夢二と彦乃は駆け落ち同然で東京を離れ京都へ移住します。共に温泉地を旅行したり、精力的に絵を描くなど充実した日々を過ごしますが、彦乃は結核を発病。病気療養を理由に彦乃は東京へ連れ戻され、二人は引き裂かれます。そして彦乃は25歳の若さで世を去りました。夢二は面会を許されず、彦乃の死後しばらくショックから立ち直れなかったそう。
夢二が彦乃の死を受けて描いた代表作が《青春賦》(写真左端)。元は彦乃が没して間もない頃に発表した《スプリング》という絵を数年後に加筆修正し、油彩画として仕上げたものだそうです。(彦乃が没した翌年に夢二が出版した『山(彦乃)へよする』という本にそっくりな絵が収録されています)
ルオーやムンクなどを思わせる描き方は一見夢二の絵とはわからないほどの異色作。実際、発見された当時は海外の画家の作品と思われていたこともあったそうです。夢二は西洋画も資料を通じて学び参考にしていたようで、夢二の画家として才能の幅広さ、素養の高さが伺えます。
描かれた男性は夢二、女性は彦乃と思われます。間には植物のように土から生える手が描かれていますが、夢二にとって「手」は美を象徴する部位。また、夢二は常に聖書を持ち歩くほどのクリスチャンでもあり、キリスト教でも手は祈りを示すモチーフとされていることから、その意味もあったのかもしれません。(友人の画家・恩地孝四郎が同時期に手など体の部位をモチーフにした抽象画を描いていた影響も指摘されています)
夢と理想と幻の《旅》
夢二は群馬県の榛名山・榛名湖の景色がとりわけお気に入りで、頻繁に麓の伊香保温泉に足を運び過ごしていました。1930年には榛名湖のほとりにアトリエを設け、榛名山をモチーフにした作品も多数描いています。彦乃と密かに手紙を交わしていた際も、彦乃のことを「山」と称して榛名山と重ねていました。
そんな夢二が夢と理想を込めた大作が《旅》。他の絵と比べても一回り以上大きい、今回の展示作品でも最も大きな一枚です。背景には榛名山周辺の風景を思わせる山と湖が描かれています。そのほとりで穏やかにティータイムを楽しむ洋装の男女と大きな犬。夢二は自分の理想の生活について「たったひとりの少女(恋人)を得て、山(榛名山)に入って悠々自適の生活(をおくりたい)」と記していたそう。先に逝ってしまった彦乃と思い描いていた、夢の暮らしを《旅》に描いたのでしょう。
夢二は晩年、榛名山の麓に「美術研究所」を建てる計画をしていましたが、志半ばで病を得、実現することなく亡くなります。幻に終わった夢二の理想の生活を《旅》は形として今に伝えています。
夢二の旅が生んだ美人版画シリーズ
続いては第2展示室。ここの第一の目玉となるのは、壁一面にずらりと並んだ夢二の代表作の版画シリーズ《長崎十二景》《女十題》です。
《女十題》は夢二式美人画の集大成ともいえる作品で、タイトルの通り10人の様々な情緒豊かに描かれた女性像が並びます。中には西洋人の女性を描いた作品(「黒猫」)も。描かれた女性たちはそれぞれ個性がしっかり感じられ、この人はどんなひとなのだろう?とその背景も知りたくなってきます。着物やアクセサリーの描き分けも見どころです。
《長崎十二景色》は昔から外国との窓口になってきた長崎ならではの和洋折衷感や異国情緒も感じられるシリーズ。港、海、芸妓さん、教会や眼鏡橋など長崎の名所や名物がモチーフに取り入れられています。
旅好きだった夢二は生涯に日本各地(北海道と四国・沖縄を除く)を訪れ、各地で取材を行う傍ら、現地で展覧会も頻繁に開催していました。晩年にはハワイやアメリカ、ヨーロッパなど海外も旅しています。会場には、夢二が生涯に訪れた場所や作品のモチーフとなった町をまとめたパネルも掲示されているので、どこを描いているのか照らし合わせて見ても良いですね。
文芸人としての竹久夢二
夢二は画業を志したばかりの頃から、雑誌や新聞のコマ絵(挿絵)の寄稿を行っており、その傍らで川柳や詩、小説の執筆も行うなど文芸人としての素養ももっていました。
続くコーナーでは、夢二が自ら執筆・連載した作品や挿絵イラストが紹介されています。
少女的な可愛らしさや美しさのイメージが先立つ夢二ですが、少女漫画風のイラストもあれば、中にはサスペンス映画の様なものやどこかホラーな空気を感じさせるタッチの作品も見られ、その引き出しの多さに驚かされます。
夢二は「絵画小説」と銘打ち、文章も挿絵も全て自分の手による新聞小説の連載も行っていました。その代表作が《秘薬紫雪》(写真右端の絵)。若くして亡くなった女性を薬で生き返らせてもう一度恋人になろうとする男の物語です。女性のモデルは最愛の人・彦乃で、彦乃を喪った夢二の実体験が大いに反映されています。夢二にとっての彦乃の存在があまりに大きかったことをひしひしと感じさせます。
なお、夢二が執筆した作品についても解説パネルが展示されています。各挿絵の作品のあらすじなども紹介されているので、併せて見るとより楽しめます。
デザイナーとしての竹久夢二
夢二は早くから庶民が生活の中で気軽に触れられる「商業美術(グラフィック・デザイン)」の分野に目を付け、自らデザインした雑貨の店舗販売・経営、図案社(デザイン会社)の立ち上げなども行っていました。続いては夢二が表紙の装丁を手掛けた代表作であるセノオ楽譜やデザインした雑貨類などが紹介されています。
幾何学パターンに児童画風・少女漫画風のイラスト、文字のレタリングにいたるまで、夢二の表現の多彩さやこだわりが光ります。グラフィック・デザインの草分けとしての先見の明、そして今にも通じるセンスを感じられるコーナーです。
夢二の眼差しを感じるスケッチ類
そして第三展示室(パノラマギャラリー)では、夢二の貴重なスケッチ画を展示。
花街の遊女や芸舞妓、妻や恋人、訪れた土地の風景、サーカスで見た人などそこに見られるモチーフは多種多彩。夢二が日頃どこに関心を持っていたのか、そのまなざしをスケッチから追体験できます。
特に印象深かったものが、関東大震災の時のスケッチ。当時、渋谷に住んでいた夢二自身も被災していましたが、震災四日後から東京各所を巡り、連載を請け負っていた新聞にルポルタージュとしてスケッチと寄稿を掲載したそうです。夢二がジャーナリスト的な一面も持っていたことを感じさせます。
崩れ落ちた建物の残骸、白骨の山と哀しむ人々の姿は浅草の光景。震災前に描かれた人々でにぎわう浅草のスケッチも併せて展示されているのですが、とても同じ街とは思えない光景に絶句してしまいました。
廃墟となった街中を乗り合い馬車が通っていく様子のスケッチは、銀座で描いたものだそう。変わり果てた街、火災で幹と枝だけになった木という風景の中を進む馬車。夢二はどんな思いで眺めていたのでしょうか。
夢二のデザインセンスをお手元に
なお、本展ではショップも注目。夢二のデザインをそのまま使った雑貨や、一部のイラストを抜き出して使用したものなど多彩なグッズが並んでいます。大正時代から100年を経た現代でも色褪せず人を惹きつける、夢二のすぐれたセンスを実際に手に取って味わうことができます。こちらもぜひお見逃しなく。
なお、今回の「夢二のすべて」展は福田美術館としては初の巡回展として、後日、群馬県高崎市でも開催が予定されています。夢二が恋人と居を構えていた京都から、愛した榛名山のある群馬へと続く展覧会、縁を感じます。
福田美術館での京都展開催は10/9まで。
■ 生誕140年 竹久夢⼆のすべて 画家は詩人でデザイナー(福田美術館)