伊藤若冲
伊藤若冲は、江戸時代中期に京都で活躍した絵師(日本画家)です。
写実と想像を巧みに融合させた「奇想の画家」として、同じく江戸時代の画家である曾我蕭白や、長沢芦雪らと並び称せられています。
略歴
伊藤若冲は正徳6年(1716)、京都・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受けます。青物問屋とは各地の野菜など生鮮食品を集めて小売(八百屋)に卸して販売させる一種の流通業で、当時でも有力な町衆のひとつでした。なかでも「枡屋」は錦小路を代表する青物問屋で、代々の当主の名「源左衛門」から「枡源」とも呼ばれていました
23歳のとき、若冲は父の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名します。
よく知られる「若冲」の号は、彼が特に懇意としていた相国寺の禅僧・大典顕常から後に与えられたと推定される居士号(こじごう/出家はしていないが知識や実践で僧侶に準じるとされる人に与えられる名)です。
商売にはあまり熱心でなかった若冲は、芸事もせず、酒も嗜まなかったばかりか、生涯妻も娶らず独身を貫きました。商人時代の若冲については、一時家業を放棄して2年間丹波の山奥に隠棲してしまい、その間に山師(詐欺師)が「枡屋」の資産を狙って暗躍し、青物売り3千人が迷惑したという逸話が残っています。
宝暦5年(1755)、40歳のとき、家督を3歳下の弟・白歳(宋巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、早々に隠居。本格的に絵師としての道を歩み出します。
当時の若冲は家からほとんど出ずに、縁側に放し飼いにした鶏をスケッチし続けていたという逸話があるほど、絵に没頭していたようです。若冲は相国寺の大典和尚の下を度々訪ねては仏教や書、絵などの指導を受けていたとも伝えられています。
宝暦8年(1758)頃から、若冲は代表作のひとつ「動植綵絵(どうしょくさいえ)」シリーズを描き始めます。
また翌年10月には、大典和尚との縁もあり、鹿苑寺(金閣)大書院障壁画を制作しました
(現在は相国寺承天閣美術館で常設)
明和元年(1764)には金刀比羅宮奥書院に襖絵を描いています。
明和2年(1765)、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去した年、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進。
若冲は死後のことを考えて、屋敷一箇所を高倉四条上ル問屋町に譲渡。その代わり、問屋町が若冲の命日に供養料として青銅3貫文を相国寺に納めるよう契約しました。
寛政12年(1800)に死去。85歳でした。
若冲の画風
羽の先まで緻密に描き込んだ鶏や、葉先の虫食いまで執拗に描きこんだ植物たちなど、見る人を圧倒させる画力を持つ若冲。その一方で、野菜を擬人化させた絵や、「伏見人形図」のように柔らかいタッチがかわいらしい人形の絵など、ユーモラスな絵もたくさん描いています。さらには、西洋画を彷彿とさせるようなモザイク風の絵(枡絵描)や、版画、石像、障壁画などさまざまな分野・表現にもチャレンジしています。極彩色の「濃い」とも呼ばれる絵柄から、筆の線の勢いが感じられる水墨画まで、若冲の画風は実に多彩です。
その背景には、若冲が一つの流派に固執せず、さまざまな画風を学び取り入れていたことがあります。
若冲は絵を描き始めた当初は狩野派の下で絵を学びましたが、それでは飽き足らず、中国の宋・元時代の画に学び、盛んに模写を行いました。また、実際のものを写生することに重きを置く姿勢も、中国画の影響から生まれたとも指摘されています。
若冲が生きた時代はまだ鎖国が続いており、海外の美術に市井の人間が触れる機会は非常に限られていました。若冲は懇意にしていた相国寺の大典和尚を通じて、お寺に伝えられていた中国画や禅宗の画を学ぶことができたといわれています。
また、若冲の絵の中には、蕪や大根、蓮根、茄子といった野菜や、ざくろや蜜柑などの果物などもよく登場しています、緻密でリアルな描写は、青物問屋の子として幼少時から実物を見る機会に恵まれていたことを感じさせます。「動植綵絵」に登場する多彩な魚たちも、生まれ育った錦市場で目にした新鮮な魚たちのイメージが強く影響しているともいわれています。
若冲と錦市場
大きな商家の跡取りに生まれながら、商売ではなく絵の道に進んだ若冲。一般的に商売に関してはほとんど興味を示さなかったといわれます。しかし実際は、若冲は一切家や町のことに関わりを持たなかったわけではなく、むしろ町衆の一人としても積極的に活動していたことが近年の研究で判明してきました。はやばやと隠居をし、家自体は次弟に譲っていた若冲ですが、当時の史料「京都錦小路青物市場記録」によると明和8年(1771)頃には錦市場のある地域を代表する町年寄のひとりを勤めていたと書かれているそうです。
そんな折、錦市場が奉行所から営業を止められてしまうという事件が起こりました。商売敵である別の地域の青物問屋が、錦市場を閉鎖してしまおうと画策していたのです。
若冲は「金を払えばお前が代表している町だけは営業できるようにしてやろう」などと持ちかけられもしましたが、自分のところだけが優遇されることはできないと突っぱね、あくまで錦市場全体が営業を続けられるように奔走します。
その動きは日に日に規模が大きくなり、多数の町人や農民たちも参加しての錦市場存続の嘆願運動となり、奉行所も無視できないほどになりました。若冲はいざというときは幕府の評定所に直訴する覚悟もしており、その際に回りに処罰が及ばないように町年寄りを辞し、一町人として活動しようともしていたといいます。
そして努力は実り、安永3年(1774)、錦市場は上納金を納める条件で存続することが決まりました。
若冲が錦市場のために奔走していた時期の絵はほとんど伝わっていないそうです。それほどまでに、若冲は町のために好きな絵すら封印して尽力していたということでしょう。
今の賑やかな錦市場があるのは、実は若冲のおかげでもあるのです。
代表作品
- 「糸瓜群虫図(へちまぐんちゅうず)」細見美術館所蔵「鼠婚礼図(ねずみのこんれいず)」細見美術館蔵
- 「風竹図(ふうちくず)」細見美術館蔵
- 「群鶏図障壁画(ぐんけいず しょうへきが)」京都国立博物館蔵
- 「石灯籠図屏風(いしどうろうず びょうぶ)」京都国立博物館蔵
- 「果蔬涅槃図(かそ ねはんず)」京都国立博物館蔵
- 「雪梅雄鶏図(せつばい ゆうけいず)」建仁寺両足院蔵
- 重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画(ろくおんじ だいしょいん しょうへきが)」鹿苑寺蔵、承天閣美術館保管
- 「釈迦三尊図(しゃかさんぞんず)」相国寺蔵
- 「群鶏図押絵貼屏風(ぐんけいず おしえばり びょうぶ)」金戒光明寺蔵
関連リンク
【京都ミュージアム紀行】Vol.17 相国寺承天閣美術館→ 若冲と特にゆかりの深い相国寺の美術館。若冲作品も多数所蔵しています。
細見美術館
→ 優れた日本美術コレクションを有する美術館。若冲作品も充実しています。
京都 錦市場商店街親交組合公式ウェブサイト
KYOTO ART CULTURE ITO JAKUCHU「伊藤若冲」若冲が生きた京都とその時代