数々の人間模様を秘めた、長谷川一門の傑作障壁画。
智積院の宝物館は、この金碧障壁画が国宝に指定されたことを受けて造られたもので、言わば「障壁画のための宝物館」。夏は涼しく、冬は暖かい、作品にはもちろん見る側にも快適な空間が保たれています。
一歩足を踏み入れると、壁一面に展示された障壁画の数々が目に飛び込んできます。
智積院に残されている長谷川一門の金碧障壁画は、『楓図』『桜図』のほか、『松に秋草図』『松に黄蜀葵(とろろあおい)図』(いずれも国宝)、そして『松に梅図』『雪松図』『松に立葵図』などがあります。
まるで金色の光に囲まれているかのような煌びやかな空間に、思わずため息をつかずにはいられません。
桃山時代の最高傑作ともよばれるこの障壁画。元は智積院の前身、祥雲寺が建てられた際、その重閣造り(二階建て)の本堂や客殿などの内部を飾るために描かれたものです。現在智積院に残されている祥雲寺時代の遺構は、大書院の「利休好みの庭」の一部と、この障壁画のみだそうで、その点でも希少な存在だといえるでしょう。
この障壁画を手がけた長谷川等伯は、能登(石川県)の七尾というところに生まれ、30歳を過ぎてから京都に出てきた、いわゆる「成り上がり」の絵師でした。
当時京都の画壇は、狩野永徳率いる狩野派の独壇場。御所や名のある寺院、そしてそれまで豊臣秀吉が建てさせた聚楽第や大坂城なども、狩野派が一手に引き受けていました。
等伯はそこにまさに真っ向勝負を挑んだのです。もう若いとはいえない年だった等伯でしたが、千利休をはじめとした文化人の理解や後ろ盾を得て、大徳寺や南禅寺、妙心寺といった名刹の仕事を少しずつ手がけ、名を上げていきます。
これに狩野派も危機感を募らせ、実際に長の永徳自らが等伯に仕事を与えまい、と妨害工作をしかけたこともありました。
しかし、ほどなくその永徳が急死。それと同じ時期に、秀吉の長男の鶴松がたった3歳で亡くなり、その菩提寺として智積院の前身祥雲寺が建立されることになります。そこで、気鋭の画家として注目されていた等伯に白羽の矢が立てられたのでした。
天下人からの依頼に等伯は一門全員、全身全霊をもって望み、この一連の障壁画を描き上げました。秀吉の期待に見事応えた長谷川等伯とその一門の名は天下に知れ渡り、結果狩野派と並ぶ地位と名声を得ることとなります。
農民から成り上がり、天下人へ上り詰めた豊臣秀吉と、田舎から上京しに名だたる絵師となった長谷川等伯。どこか境遇の似たこの二人。その間には奇妙な縁のようなものもあったのかもしれません。
国宝 長谷川等伯『松に秋草図』
入って右手、『楓図』『桜図』と向かい合って展示されています。風に揺れる草花の柔らかさが印象的。→拡大
『雪松図』(部分)
宝物館の中でも奥のほうにあります。これは等伯のお弟子さん達が描いたもの。松はあまりに大きくて画面に収まりきらないほどの迫力。この絵が、描かれた当初の障壁画の大きさに一番近いそうです。
一度きりの親子の競演、『楓図』と『桜図』
『楓図』は長谷川等伯、そして『桜図』はその長男である久蔵の作品です。
中心に巨木を据え、左右の画面いっぱいに枝を広げているダイナミックな構図は、今にも画面から飛び出してきそうな迫力があります。
実はこの障壁画自体も、実は描かれた当時とはサイズがかなり変わっているのだそう。
現在はちょうど襖絵ほどの大きさになっていますが、本来はより高さも幅もずっと大きく、まさに天井までの壁一面を覆うほどであったといいます。
というのも、智積院は過去4度も火災の憂き目にあっており、その度に僧侶達は「せめてこの絵だけは!」と必死でこれらを壁から剥がし、持ち出して避難させていました。そのために人の手が届く高さと幅で切り取った大きさになってしまったのだそうです。
もし、本来の大きさでこの絵を見ることが出来たなら…本当にその場に大木が生えているように見えたことでしょう。
因みに、本来の大きさに一番近いのは右手奥にある「雪松図」。思わず見上げてしまうほどの大きさです。是非、実際に宝物館を訪れた際に見比べてみて下さい。
この『楓図』『桜図』を描いたとき、齢50を過ぎていた等伯に対し、久蔵はまだ24歳という若さ。事実上、これが画壇へのデビュー作でした。
『桜図』の一番の特徴は、枝を彩る白い八重桜。近くから見てみると、花びらの部分が一部、画面から盛り上がっているのがわかります。これは貝殻を砕いて作った「胡粉」を塗り重ねて立体的に描いたもので、当時でも大変難しい技法なのだそう。
また、本来そこまで年月が保つ描き方ではないので、描かれてから400年も経った現在では、本来全て剥がれ落ちて跡形もなくなっていてもおかしくないとのこと。しかし、今でも花びらが残っている箇所があるというのは本当に不思議です。
背景の金色にはっきりと映える白い花びらは、華やかで優美。まさに春爛漫の桜の姿は
とてもデビューしたての若者が描いたものとは思えない完成度。恐らくこれを見た父・等伯も息子の才能と一門の将来に目を細めたことでしょう。
しかし、皮肉なことにその後等伯を待っていたのは絵を依頼した秀吉と同じ「息子の死」でした。
なんと、久蔵は『桜図』を描き上げてわずか2年後に亡くなります。『桜図』はデビュー作であると同時に、彼の遺作となってしまったのです。詳しい原因ははっきりとしていませんが。あまりのタイミングに、長谷川派に仕事をとられたのを妬んだ狩野派に殺されたのではないか、という噂までまことしやかに囁かれています。
どちらにせよ、父に勝るとも劣らない、将来を嘱望された息子の死。どれだけ等伯を落胆させたことか、想像に難くありません。
隣にある『楓図』は、一説にはその久蔵の死後に描かれたともいわれています。
まるで桜に応えるように、力強く枝葉を広げており、大きな幹は齢を重ねた貫禄をも感じさせます。それでいて周辺を彩る鮮やかな葉や秋の草花はとても繊細で可憐、とても上品に描かれています。力強さと繊細さを同時に併せ持つ、等伯らしさがよく現れている作品です。
若々しい桜の木に、どっしりとした楓の木。もしかしたら、等伯は絵を通して、いなくなってしまった息子と会話を交わしていたのかもしれません。
因みに、『桜図』には普段はあまり見せることのない「もうひとつの姿」あるのだそう。
それは「夜桜」。館内の灯りをぐっと落とすと、白い桜の花が暗がりにうすぼんやりと浮かび上がって見えてきます。絵が描かれた当時は電気ではなくろうそくの光で生活していたわけですから、現在よりずっと暗い中で絵を眺めていました。一見派手な背景の金は、暗がりをより明るく見せる効果もあります。
「もしかしたら、秀吉も亡くした息子を思いながら、この絵の前で酒を飲んだのかもしれませんね」。
国宝 長谷川久蔵『桜図』。
普段は行っていないそうですが、これを灯りを落とした状態で見ると、暗闇に桜の花が浮かび上がる「夜桜」に変化。幻想的で妖艶な、また違った雰囲気が楽しめます。機会があれば、見せていただけるかも…?
→拡大
『桜図』の拡大(部分)。背景の金箔が反射した光で、若干花びらに陰影が出来ているのが見えます。これが胡粉を塗り重ねた効果。
国宝 長谷川等伯『楓図』
息子よりも太く力強い木の描写には、落ち着きと貫禄も感じます。中心に大木を据える「大図様式」は等伯のライバル・狩野永徳が得意としていましたが、見事に等伯は自分のものにしています。
→拡大
『楓図』の拡大(部分)。力強い幹に対して、色づいた葉や根元の草花の描写は非常に細やかで繊細。豪快さと可憐さが同居した、まさに等伯の真骨頂といえる作品です。
天下人の思惑を秘めた、葵の図
この絵には面白い逸話が残されています。
智積院の障壁画には、秀吉が好んだという「松」が多くモチーフとされていますが、これはつまり、松は豊臣家を示すもの、と考えることが出来ます。
対して、この絵に松と共に描かれている「葵」は、豊臣家とは対立する徳川家の家紋にも使われている花です。
風に揺れる葵の花を、まるで圧迫するかのように上から松の木が枝葉を広げている―これは「豊臣家が徳川家を抑えている」、つまり「天下は豊臣のもの」という意味を暗に示している、と解釈される向きもあったのだそうです。
結局その後秀吉が亡くなり、天下は徳川のものとなります。普通、そのような不届きな話があるものは無くしてしまってもなんらおかしくはありません。しかし一方で、この絵を見た徳川家康が、葵が勢いよく伸び松を覆いつくさんばかりに描かれており、「豊臣の天下は終わり、徳川がそれを凌駕する」という意味に解釈し、わざとそのまま残させた、という逸話も伝えられているのです。
嘘か真かは今では定かではありません。ですが、天下人双方がそれぞれに有利なように、全く逆の意味に読み解かせたというのも、なんとも面白い話です。一つだけ確かなことは、それだけ多くの人がこの絵に魅了されていた、ということでしょうか。
絢爛豪華な桃山時代の傑作に秘められた、様々な人々の人間模様。それに思いを馳せながら眺めてみるのも、いいかもしれません。
なお、この記事の取材に関しましては、智積院教化部・教宣課の皆様に、ご案内・ご協力を頂きました。この場を借りて、御礼を申し上げます。
『松に黄蜀葵(とろろあおい)図』
これは元々書院を飾るために描かれたため、宝物館に再現された書院にそのままの配置で展示されています。
こちらは隣の『松に立葵図』。書院に欠かせない違い棚周りに描かれています。当時の煌びやかな部屋の様子が良く分かりますね。