武神に捧げられた武具の数々
《紫絲威鎧》(むらさきいとおどしよろい)重文・南北朝時代
宝物館には常時数点の鎧が展示されていますが、そのうち最も古いものがこちら。
紫色の糸で小札(こざね/日本鎧の多くを構成する、小さな札状の板。革や鉄で作られることが多い)を繋いで作られているため、この名前がついています。
鎌倉と室町の丁度間にあたる南北朝時代の作とのことですから、(兜は若干新しく室町時代の作といわれているそうです)実に700年近く昔のもの。しかし破損は殆どなく、色褪せも少なくしっかりと、美しい姿を残しています。
鎧の胴体部分はおめでたい宝尽くしの模様がはっきりとわかる、綺麗な白い緞子(サテン地)包み。金属部分も丁寧に彫金が施され、模様もはっきりと見ることができます。どれだけ大切に伝えられてきたかがよくわかります。全体の雰囲気や非常に丁寧なつくりからして、とても高貴な武将のものだったのでしょう。
藤森神社では、西座に祀られている「早良親王」が、蒙古追討(元寇)に赴く際に身につけていたものと伝えられているといいます。
昭和29年(1954)に国の重要文化財に指定されました。以前は京都国立博物館に寄託されていましたが、神社に宝物館を建てた際に里帰りしたそうです。
紫絲威大鎧(むらさきいとおどしおおよろい)・江戸時代前期
もうひとつ、前述した鎧の隣によく似た名前の鎧が展示されていました。
こちらは鎧兜のほか、臑当(すねあて)、鎧の下に着る直垂(ひたたれ)や鎧袴(よろいばかま)、篭手まで一式綺麗にそろっています。江戸時代前期の作で、徳川幕府4代将軍・家綱によって奉納されたものだそう。明治維新、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)の際には、新政府側の東征大総督に任ぜられた有栖川宮熾仁親王が実際に着用し、戦に赴いたのだといいます。まさに「歴史の証人」といえる一品です。
刀剣・武器類
鎧兜はもちろん、刀や槍といった刀剣、弓などの武器も宝物には多く含まれています。
最も古いものは、平安時代の三条小鍛冶宗近作の宝剣。藤森神社の宝物の中でも、最も古い時代のものです。
神社の記録では、幕末の嘉永五年(1852)の12月、藤原光成という人が奉納したものとされています。
刀本体のほかにも、鍔(つば)や、刀剣が柄(つか)から抜けてしまわないようにする金具「目貫」※などもあります。どれも丁寧で美しい装飾が施されています。
※目貫:刀が柄(つか)から抜け落ちてしまわないように、刀の茎(なかご:柄に差し込まれる部分)に通して留める金具。「目釘」とも。柄の部分で一番目立つところにあるため、次第に家紋や柄などを入れる装飾部分になっていった。藤森神社の所蔵品には、花柄や、粟の穂をデザインしたものが見られる。
銃・重火器
藤森神社の武器コレクションの中でも、特にユニークなものが揃っているのが銃器。
江戸時代に造られたものが主で、火縄銃のほか、馬に乗ったままの状態で打つことができる「馬上筒」など、実に様々な種類を見ることが出来ます。
中には一つの銃に八つも銃口がついているというもの(八連発火縄銃)や、小型のバズーカのようなもの(一貫目玉大筒)もあるのですが、「実用性の程は定かではない」とのこと。恐らく実際に戦で使われるようなことはなかったと思われますが、一体何のためにこれが作られたのか、今になっては謎のままです。
その他にも、蒔絵の施された火薬入れなど、銃を使う際に用いる道具類も併せて見ることができます。
■ 先込式大筒
展示室の片隅にひっそりとある大筒。見ると、表面には丸十字の紋があります。丸十字は薩摩・島津家の家紋です。これは明治維新の鳥羽・伏見の戦いの際、薩摩藩の軍が実際に使用していたものなのだそう。大筒、と名はついていますが、実際は子供の玩具のような大きさです。持ち運びがしやすいよう、小さく改良されたものなのかもしれません。
『紫絲威鎧』(むらさきいとおどしよろい)。形は平安~鎌倉時代の鎧の形を残しています。
『紫絲威大鎧』(むらさきいとおどしおおよろい)。上から下まで、実際に着る際に必要なものが一式揃った立派な具足です。
上が「八連発火縄銃」、下が「一貫目玉大筒」。共に江戸末期の作。
戦が無かった江戸時代には、変り種の「珍銃」が多く作られたそうですが、実用性は…
先込式大筒。島津家の家紋「丸十字」は筒の中央部に刻まれています。
武士のたしなみ、お洒落心の分かるユニークな品
茶室用脇差
刀剣のコレクションの中でも、是非見ておいていただきたいのがこの木製の脇差。要するに木刀ですが、黒檀などの高級な材料が使われていたり、漆塗り、丁寧な彫刻や螺鈿などの細工がその施されていたりと、色も形も実に多彩。魚を模したものや、草木の枝のようなもの、葉の上にのったカタツムリをあしらったもの…などなど、どれも実にユニークです。
妙に贅沢なこの木刀、敵を倒すためのものとは思えません。一体なんのために作られたのでしょうか。
実は、これは茶室に持ち込むために作られたもの。茶室では帯刀は禁止されているため、どんなに身分の高い武士でも刀を持ち込むことはできません。そこで、通常の刀の代わりに豪華な木製の脇差を作らせ、身につけたのです。
藤森神社には10振(いずれも江戸時代のもの)が所蔵されています。この「茶室用脇差」は大変珍しいもので、あまり数も残っていないそう。恐らく他でお目にかかる機会は殆どないのではないでしょうか。どれも見事な芸術品、江戸時代のさりげない、粋なお洒落心を感じさせます。因みに、これも藤森宮司のコレクションなのだそう。
笄(こうがい)
今も和装の際に女性が髪結いに使う髪飾りの一種です。昔は男女共に常に持ち歩くもので、髷(まげ)や髪を整えたり、頭を掻いたりするのに用いていました。元はいざという時に使う護身用武器の意味もあったそうです。
初めの頃は平笄や細笄といったものがほとんどでしたが、江戸時代になると女性の結髪が行われるようになって様々な髪型が生まれ、それに伴い笄はもっぱら髪飾りとして用いられるようになります。そのため材料も象牙や玳瑁(たいまい。鼈甲(べっこう)のこと)が用いられたり、丁寧に蒔絵が施されたりと美しいものが作られるようになっていきました。形もシンプルな棒状のものから、反りがあるものや、中には耳掻き付という便利グッズ化したものもあったとか。
藤森神社にあるものは、男性用のもの。武士がたしなみ、つまりお洒落のひとつとして刀の横に刺して使っていたものです。柄の部分にはどれも繊細で丁寧な装飾が施されています。
茶室用脇差。
通常の脇差(短刀)に近い形のものから、ユニークな形のものまで揃っています。中にはウナギやエビの形をしたものも!
笄(こうがい)、目貫、縁頭の三点セット(江戸初期)。笄は刀の鞘(さや)にある収納スペースにはめ込んで持ち歩かれていました。ちょうど装飾のついている持ち手部分が鞘から見えるようになっており、一種のアクセサリーの意味もあったようです。
神社の文化を伝える品
七福神面
5月の藤森祭の際に用いられる、七福神の面。
藤森祭は古くから人々に親しまれ、その様子は古筆や書籍、絵巻などにも数多く記録されています。この七福神の面をつけた人の行列姿も、藤森祭の様子を描いた江戸・元禄時代(1700年頃)の絵巻に描かれています。展示室内に展示されているものは「藤森祭図巻」(大英博物館蔵)に描かれているものを元に、能面師の方が復刻したもの。どれも何だかユーモラスな表情をしています。現在、実際のお祭りの際も七福神の行列がありますが、その際は新しい別の面を使用しているとのこと。
このほかには、伏見の産業を支えていた水運用の船の模型や、幕末の伏見の様子を伝える古地図など、伏見の歴史を伝える資料も展示されています。
なお、この記事の取材に関しましては、藤森神社の宮司様に、ご案内・ご協力を頂きました。この場を借りて、御礼を申し上げます。
七福神面。上に見えるのは藤森祭の様子を描いた「藤森祭図巻」(大英博物館)の模写。七福神の仮装をした行列の姿もしっかり描かれています。実際に訪れた際に確かめてみて下さい。