平成最後の七夕は、日本を記録的な集中豪雨が襲った。その翌8日は、京都の街は、まるで悪い夢から醒めたような、少し不気味な湿気をはらんだ晴れの日だった。
雨の関係で予定がキャンセルになったため、以前から行きたいと思っていた、京都国立近代美術館の横山大観展にいってきた。
絵を見に行くという行為は、ここ数年はじめたけれど、ものすごく個人的な体験であると考えている。
これまでの自分の経験とある絵画との出会いが、結びつき絡み合い、心の奥底にすとんと残る、というような体験。
前置きが長くなった。
さて、自宅から地下鉄東西線で東山駅を目指す。
東山駅1番出口を抜けると、看板地図があって会場を探すと、「あ、ちょっと歩かないといけないんだ、不便だな」と思う。
夏場の暑さが少しこたえるなぁと思った。
駅を降りてすぐ、さっぱりとした店構えの和菓子屋さんが水無月を売っていた。
そのお店の前に少し人だかりができていて、有名なお店なのかもしれない。
道なりに歩いていくと、雨で増水した白川がぱっと現れた。
濁流であったが、水の流れはいつ見ても癒される。
更に歩を進めるとどっしりと現れる平安神宮の鳥居。
その左手すぐがお目当ての京都国立近代博物館、横山大観展。
大雨の翌日とは思えないくらいの盛況ぶり。
巨匠と言われる人の作品はやはり違うのだろうかなど、期待を胸に館内へ。
館内写真を撮れないのが残念である。
明治・大正・昭和と移り行く時代の劇的な変化とそれに合わせて変化を遂げていく大観の作品は、とても見ごたえがあった。
大観の「我は日本人であるという誇り」を重んじる姿勢は、どの作品からもにじみでており、他の追随を許さない確固たるオリジナリティーが、150年たつ今でも日本で人気の所以なのかもしれない。
ただ、こう、正直に言って心が奥底から揺さぶられる、という感覚があまりわいてこなかった。
きれいだな、荘厳だなと思うのだけれど、大観の絵と自分のこころの間にものすごく距離がある感じ。
このような感じ方はあまりしたことがなくて少し戸惑った。
戸惑いながらも絵を見ていくうちに、だんだんその距離感の正体がわかった気がした。
大観は「自分の満足できる絵を描きたい」という欲よりも、「有名な画家として認めてほしい」という欲が勝っていた人なのではないだろうか。
その絵を見る日本人もしくは外国の人までをも強烈に意識し、政治的メッセージ性のつよいスタイルは「名誉欲」そのものではないだろうか。
わたしは、作家のにじみでる情感、に感化されるタイプなので、その計算しつくされた作風は揺さぶられるというところには
至らなかったのかもしれない。
しかし、清濁飲み併せたひとりの孤独な画家の姿が見えた気がした。
展示最後の部屋の「群青富士」はその集大成で、気迫を感じ素晴らしかったが、最もこころを打たれたのは下の素朴な動植物の図であった。
気に入った割に絵のタイトルすら忘れてしまったが、そのわたしのこころの中での無名性も良いと思った。
政治との密接な距離感を築いていた画家の、素朴で繊細な一面が表現された素敵な絵。
日本列島を襲った大雨からの嘘みたいに晴れた翌日に、横山大観という世界に出会い、その力強さにふれ、日本人として生きていることを鼓舞された気持ちになった。
そのようなことを考えながら帰路についていると、湿気を帯びた風に気づき、「あぁもう夏だなぁ」と気づいた1日のおわり。