6月3日から8日に開催されていた『Dance Fanfare Kyoto vol.2』。
そのうち、7日に行われたカケル(×)ダンス『音楽×ダンス』を観に行ってきました。
観に行った動機は「ダンサー・京極朋彦さん(http://kyo59solo.blogspot.jp/)が出演するから」。
京極さんは、ストイックな身体、しなやかな動きが素敵な若手ダンサーさんです。
いつも割と露出度が高めな印象があるのですが、「人間鍛えたらあんな見たことないような線がカラダに浮き出てくるもんなんやな」と、身体の不思議を垣間見ることができるので細マッチョダンサー好きさんにはオススメです。
さて、公演の主旨は「3名のダンサーが20分の振付を創作。それに対し音楽家が即興的にライブを行う。ダンサーはおなじ振付を3回踊り、1回目は無音、2回目は音楽家A、3回目は音楽家Bという音の変化がある。音の違いによってダンサーの振付、踊りの見え方がどのように変わるのか。音楽とダンスの関係性を探る」というもの。
1回目はとにかく、見ているこちらにも「無音であることに対する緊張感」があり変な集中力を持って身体を眺めていた気がします。
2回目は爆音のエレキギターがメインの音楽。踊りに音楽をぶつけていく、ダンサーと音楽家の力と技の一騎打ちのような印象。
3回目は主にピアノと、その他創作の楽器たち。こちらはダンサーと音楽家に程よい距離感があり、音楽はその場で起こっていることに反応してのっかっていく、というような印象。
音が入ってきた途端、音・演奏者と身体の動きの間に何か物語を想像していました。
物語というより、勝手に何かを連想するという感覚です。
身体・筋肉・骨格・表情の動きを堪能するだけであれば無音はこれ以上ない最適な状況。
博物館に陳列された標本を観察することと同じ。
そこに音楽が加われば、私たちは勝手に心地よく(あるいは音楽に対して不快感を抱きながらも)標本に自分の想像を肉付けしていき、物語性を持たせる。
「京極さんの汗は今日もすごい量だな」
刻々と、汗により色が変わるタンクトップを眺めながらそのようなことをぼんやりと考えていました。
お出かけをするのが好きです。文章を書くことが好きです。 お稽古事で観世流仕舞を習っています。 京都在住15年目、2013年9月から市内でシェアハウス生活を始めました。 (旧PN あんこ) 「私の目で見る京都」をお伝えしていけたら、と思います。