今年の夏はなんて暑いんだろう。
それでも海を見ると、「ああ、夏だな」と少し心が弾む。
でも京都市内では、海を見ることはできない。
水の景色といえば川辺、となるが、こんなに暑いと水量が下がってしまい、物足りない。
いっそのこと、水は無くてもいいのかもしれない。
いっそのこと、枯山水庭園なんてどうだろうか。
枯山水は難しい。
配置された石のそれぞれが実は、鶴とか亀とか、滝とか島とか、海とか船だったりするらしい。
仏教的なの思想を語り掛けているらしい。
でもこんなに暑い夏に、難しいことなんて考えられるはずもない。嫌だ。
だから自己流に、思い切り単純に、庭を見る。
白砂は、とりあえず水。たぶん海。
背が高い石は、鶴か滝。
平べったい石は、亀か島。あるいは橋か船か。
むしろ、鶴であり滝、なのかもしれない、と思い始める。
亀であり島であり、船でもあるのかもしれない。
この世やあの世にはありとあらゆる形のものが存在するが、その形態をとことん単純化すれば、丸とか三角とか四角に収束させられるのではないか。
セザンヌもそんなことを言っていた。
だから、枯山水は「ぜんぶ」なんだ、と言い切ってみる。
単純化された形態は、この世とあの世のあらゆる形のすべてを代表しているのだ。
枯山水には、ぜんぶがあるのだ。
京都にあるたくさんの枯山水庭園のどこかで、海に浮かぶ船を思って、滝に打たれる亀を思って、心弾む夏を感じたい。