例えば《花下遊楽図屏風》。
桜の下で、踊る人々とそれを観る人々。
上流階級の人々の姿と思われるが、有名な君主や高僧ではないだろう。
まさに「遊び」、花見の場面が描かれている。
それも固有名の誰かの花見ではなく、どこかの誰かの花見である。
これはカメラではなく、筆で身近な情景をとらえたスナップショットだ。
楽しそうだな、と思う。
桜が美しかっただろうな。お酒がいつもより美味しかっただろうな。
自分の思い出が呼び覚まされる。
「どこかの誰か」の花見であるからこそ、気楽に自分を重ねられる。
画面上では静止している時間が、絵を見ている自分の中で流れ出す。
数百年の時を超えて、楽しい時間を分け合うようだ。
来年の桜は、どこで誰と見るだろう。
百年後の人々も、同じように花見を楽しむことだろう。そうだといいな。
さらに未来へと、時間が流れていく。
特別展覧「遊び」(京都国立博物館)