『バスティーユの恋人』(1957)
フランスの写真家と言われて思い浮かぶのはブレッソン、ドアノー、ブラッサイぐらい。
あっ、イヨネスコと...。
不覚にもウイリー・ロニスという人は知らなかった。
アンリ・カルティエ・ブレッソンは「マグナム」をキャパらと立ち上げ、雑誌の依頼で世界中を激写したという行動力と実行力にあふれた、また終戦までレジスタンス運動に加わるという明快な志向性を示したカメラマンでジャーナリスティックな視点を持った人という印象が強い。
一方「市役所前のキス」という作品で有名なロベール・ドアノーは
被写体たちの奥底にあるペーソスを浮かび上がらせ、
結果的に決して大袈裟ではないドラマチックな空気を画面に醸し出す。
そこにあるのはささやかなペーソスとユーモア。
いずれもフランスを代表するヒューマニズム写真家であり、
ウイリー・ロニスもその一人だと言う。
三人に共通しているのは(もちろんブラッサイにも)
パリという街に、そこに住む人々に魅せられたこと。
ここに展示されているオリジナルプリント60点を一つひとつ見てみると
写真が好きな人、写真を撮ることを趣味にしている人、
仕事にしている人問わず、
こんなロケーション、シチュエーションに満ち満ちている
"過去"のパリにワープしたい気持ちにかられるだろう。
苦い辛い歴史の果てにある庶民の姿、
ことに「生きること」への執着と喜びを
被写体である彼らは実に素直に表し、また写真家はその一瞬を捕まえる。
限りなく豊穣な街、パリ。
常々思うのだが、撮るという行為に先んじて現象が起こるわけで
これを逃さないということ、そのこと自体が写真家の写真家たる天分ではないか、
そんな風にも思う。
パリに行ったこともない僕が現在も過去も比較しようもないが
確かなことは、このモノクロで切り取られた光景に
奥行きの深い、僕たちに色彩の想像をさせないほどに新鮮な
街の、人の吐息を感じるのだ。
そしてカメラというハードウエアに任せなければ
どこまでいっても成立しない写真家の成分は
しかし1%の機能と99%の感覚でできているのではないか。
「カメラは道具、道具は考えない。
この道具の背後には私の眼があり、頭脳がある。
シャッターを押す時、この頭脳が選択する。
写真家の行為は心の中のことである。
客観性はない。」
と語るロニスが見つけた、いや"発見"する影は
人の機微を実によく描写している。
こういう展覧会に出会うたびに写真には門外漢の僕でも
モノクロ写真の洗礼を全身で浴びることになる。
会場を出た瞬間に目もくらむほどの
無秩序な色彩が飛び込んで来ると
もう一度、深遠なそして美しく物の、人の表情をとどめ置く
黒白(こくびゃく)の世界へ戻りたくなるのである。
文責:den 編集:京都で遊ぼうART