「Tibet」(2010) © Taku Ibuki
人肌を認識するというのは
撫でたり、さすったり、つねったり、舐めたり、つまんだりすることだけではない。
この確認はどこまでも触感だけに頼ったもので
それ以上でも以下でもなく、そこに"或る"ことを確かめているだけだ。
以前ダンスのワークショップで
二人一組になって一人がもう一人の腕を取り、
とは言ってもそこに他意を感じさせないほどに滑らかにそっと握り、
そのまま静かに前後に動くというのをやった。
腕を取られている側も同じように動く。
どこかで力が入ると途端に相手の腕は反応する。
その反応とは逃避だったり、不自然な同調だったりする。
そこでは相手の腕の皮一枚を意識して
相手の触感と同化する、つまり相殺するということ。
なぜか、この抽象画を見てそんなことを思い出した。
僕たちの周りはなんらかの気配で溢れている。
気配だけで成立しているような気さえする。
実は目に見えているものなど意味が無いほどに...。
ギャラリーの壁にかけられた300号もの大きさの作品から発せられるものは
圧巻とか壮観とかではなくて、
作家の言う"色彩を引き出そう"とする並々ならぬ強固な意志。
体積やサイズに圧倒されるだけではない作家の決意のようなものを感じる。
それこそがカンバスから放たれる気配ではないだろうか。
僕はこの抽象の中に首まで、肩まで、腰まで、いや全身を浸かる。
neutronの石橋さんがコメントで書かれているように
作家の絵画に描かれているのは矛盾と共感の塊としての「存在」。
人と人との関係性もまた相反する矛盾と共感を抱えつつ成立する。
そして人を語る時も結局はかなり抽象的な表現に着地する。
僕にとっての抽象画、という言い方で括るつもりはないが
"理解し難いもの"への様々な反応もまた絵を観るということに他ならない。
食わず嫌いはいけないとかでもなく、
「描くひと」は絶えず、自己と支持体、人生観と画法、洗練と野蛮、
常識と間違いを対比させ、にらみ合いながら
自己表現の一環として絵を選ぶわけだから、
せめても一途な情感のほとばしりを浴びようではないか。
それにしても画材を媒介しながら色彩とうまくつき合っていくのは
想像を超えた骨の折れる仕事だろうと思う。
チューブからひねり出した色が色なのではなく、
ここに置きたい色こそが作家にとっての色。
でも色は中々出てくれない。
で、作家は必死になって色出しをするのだ。
色彩、その軌跡、情感の発露、そうやって形を立ち上らせる絵という所産...。
一昨年に第一子が誕生されたという作家自身の心の有り様は
神秘の命、成長、そして安寧や平安を願う気持ちを
新しい基軸にして展開していくのだろう。
"絵を描くこと"を通じて...。
関連リンク
伊吹 拓 展 『あるままにひかる』
neutron kyotodenさんのブログ「シッタカブリアンの午睡」
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