お米とお箸の恋物語の中身...
三野さんの対象はあっけらかん。
前回は寺の入り口ばかり撮ったもの。
そのお寺も総門のあるような大きなものではなく、三野さんの出身である守山のお寺。
いわばご近所様のお寺。
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過去ログはこちら(denさんの個人サイト内)
さて、ギャラリーサイトの告知を見ると、1年ぶりの三野さんの個展。
やはり......お眼鏡にかなったのはどうやらカントリーエレベーター。
守山の田んぼの中に立つこの建物をそう呼ぶとは知らなかった。
確かに良く見ると不思議な形をしている...が、とてもシンプル。
サイロのような筒状の構造物の上に、なんとものどかに家がのっかっている。
これは明らかにその機能から形成されたデザイン(?)なのだが、
一切の情緒性はそこに無いのに、不思議となごむのは何故か?
三野さんはまずこの「お米とお箸の恋物語」のロゴが気になった。
書かれた建物とのわずかなギャップ。
「カントリーエレベーター」を調べてみる。
JA西春日井のサイトにはなんと「カントリーエレベーター探検隊」なるコーナーもあって
コレさえ見れば完璧、"カンエレ"のオーソリーティまちがいなしである。
で、中身の説明等はこの際そちらのサイトを見てもらうとして、
要は三野さんの心象(実は像はまだ映ってはいないが)が外から中へ徐々に移行していくことにある。
ここに僕などは極めて男性的な(差別的な意味ではなく)"萌え"を感じるのだがいかがだろうか。
内部への関心が"プチ工場萌え"へとスライドしていくのは
本人が望む心象=被写体としての魅力、というとても健全な動機がそこにあるからだと思う。
この田んぼに立つ、関係者以外には立ち入ることなどない施設に撮らせて欲しいと申し出るのだが、
もしそれが僕なら(例えば写真を趣味にしているオヤジだったら)まず怪訝な顔と態度で対応されて、快諾とはならない。手続きも面倒そうだ。
正直言って、「写真を専攻する大学生」であるという彼女が持つメリットの存分な活用。
ついついこういう風に考えてしまう。
だってこれさえ写真を撮るという行為のとっかかりであって、
撮りたいと願ってみても撮らせてくれない状況というのも充分に有り得るからだ。
おっと、肝心の写真のことに全然触れてない。
ひと気のない(撮影の時季はシーズンオフということで人も少ないらしい)構内の写真は全くといっていいほどに、やはり"あっけらかん"。
三野さんの性格も反映されているのかしらん。
社会科の教科書にあるような写真。あおりも演出も無い。
下に工程のキャプションがついていてもおかしくない。
でもじっと見ていると、人のいない、作業していない現場というものの気の抜けた、
あるいは間の抜けた感はそれなりに味わいがあったりする。
三野さんも意図的に淡々と撮影しました、と語る。
ただ機能するためにだけあるそれらの器具や設備に、何らしかの哀愁を覚えるのはなぜだろう。
最初に写真自体のクオリティを問うてしまえば、これらの作品は途端に言葉を無くすかも知れない。
しかし「当事者にとっての当然」が「他者にとっての興味」であること、
その愉しいギャップを若さというフィルターを通して表現したものと考えるならば、これらもほのかに色めきたってくる。
順序が逆な写真があってもいいではないか。
このインクジェット出力の向こう岸に何かが見える、
それが何かを示唆している、そのことが心にさざ波を立たせる、
それを探しにもっと迷い、ためらい、後ずさりしながら
これからも色んなものをたくさん撮って欲しいと思う。
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