山本 麻矢 展- EMPTY -
『子供(エネルギー)が被る「兎の毛皮で作られたウサギ帽子」』
© Maya-Yamamoto
作家であること。
そして母になったこと。
単純にこの二つの事実を作品を媒介として
汲み取ろうとしたり、うがってみる。
喜ばしい今の境遇が作品に反映されていると思い込む。
作家の、作ることへのテンションの維持は
僕のような一般人からは想像もできない、
いや想像なんかできないから作品として成立する。
そして作家は孤独な作業に延々と打ち込む。
僕の持つ至ってステレオタイプな作家像。
"母になった作家"ならではの、
命の輝きに満ちた作品を...と続きそうなものだが
山本さんは"生むこと"と"産むこと"の作家としてのジレンマに至る。
女性だけが体感し得る神秘的な経験は
実は山本さんにとっては作家としての新たな気付きとなった。
山本さんはモノ(物体)に手を加えて(加工)、
彫刻という新しい名前を持つ作品を作っているが、
それはどう転んでもモノであるという宿命を背負っている。
彫刻家にとって、それは勿論承知の上ではあるし、
そこに思いを刻み込んで可視化していくことこそがミッションなのだから。
しかしふと山本さんは立ち止まる。
"力"を木に込めて、あるいは託して表現の手立てとすることは
産まれた子供のエネルギーには到底及ばないことを知るのである。
これはロジックでもなく、マジックでもない。
常に何かに"例えて"作品づくりを押し進めてくる作家にとっては
決定的にモノに依存しているという事実を
明確に示唆されていることに他ならない。
山本さんのいう「EMPTY」、つまり空っぽとは
残酷に突きつけられたテーマであった。
エネルギーが空っぽになった"作られ物"とそれに満ちあふれた"生ける者"。
この生と死を実感する作家は
エネルギーが空っぽの生を表現しようと試みる。
ウサギという生き物から剥がされた皮は、その瞬間に獣皮というモノになる。
モノで作った帽子を我が愛娘に被せたDMは一見ファンシーではあるが
生き物としての鼓動を剥奪されたウサギの皮を
今、呼吸する子供に被せることで、意味性を一元化する。
かつて呼吸していた肉体(死)と成長していく肉体(生)との対比は
それ自体は何ら違和感がないようであるが
(実際毛皮をまとっている人はたくさん居る)
こうして作品として捉え直してみると深く考えさせられる。
かつては毛皮を纏うことによってその力を授かる、その力を借りる、
また畏敬の念を深くしたであろうギャートルズたちに思いを馳せたりする。
が、山本さんにとっては子供に自然とフィットするのがたまたま毛皮であったに過ぎない。
肝心なのは先にも述べた、作家としてのスタンスを
改めて自らに問うことになった愛娘が
山本さんにとって母子という関係性を越えた存在であるということ。
お話の中で印象深かった言葉がある。
産むということは宇宙のしくみの中であったこと。
それは定理に支えられた絶対的なシステムの中では奇跡な出来事なのだ。
それは出産というよりも新しい星の誕生のように僕にはうつるのだ。
文責:den 編集:京都で遊ぼうART
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山本 麻矢 展-EMPTY-ギャラリー恵風
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