TDLのファンは何よりもあの着ぐるみに異常なほどの親愛を抱く。
中身で汗にまみれている肉体はすでに問題ではない。
見た目、外側である。
つまるところ、僕たちは自分の持つありったけの想像力でもって
彼らを外側から受け入れ、善人説の極みとも言える寛容さをもって接する。
勿論相手も同じ。
相手の立場で考えればホスピタリティ以外の何物でもない。
彼らの剽軽でメリハリのあるゼスチャアはその絶対条件になるし、
何よりも“生き者としての対象”を感じさせる“訓練”は欠かせない。
ここにある三沢さんが作り出す動物たちは
当然ながら微動だにしない。
じっとなどしない着ぐるみと比べたら真逆なのだが
僕たちは彼らが今にも喋るんじゃないか、動くんじゃないかと
愉快な心地にゆったりと浸ることになる。
リアルとは何だろう。
例えば原寸大の像を作ろうとする時、作家が
「原寸大の動物彫刻 ≒ リアリティ」と考えても
何ひとつおかしくも間違ってもいないが、
それは本物そっくり!という(高いハードルだが)結果で収束する。
観客はそこから先へ進めなくなる。
それほどにリアルならば…。
僕が言う「しゃべり出しそう」という感覚はその先のものだ。
それも僕のわかる言葉で。
着ぐるみが“進んで”キャラクターになろうとする動機も効果も
当然承知の上であれだけもてはやされるのは
特にTDLの場合などは「Welcome」意識の極みだと言ってもいい。
「来てくれたんだね!」という例のあれだ。
ここの、ノミの削り後の質感がそのまま皮膚感となっている
数々の動物たちは実に無口なのだが
ここに来ることを同じように待っているのだ。
観客と対峙した時に彼らの声は発せられ、彼らの体温が上がるのだ。
これもクスの木に宿る木霊のしわざかも知れない。
じぃーっと向かい合っていると不思議な気分になる。
この作品は一つひとつとしっかり向き合いながら
心で触れながらじっくりと見て欲しい。
彼らからほのかに漂う木の香りと微かな塗料の匂いとのブレンドは
なぜか僕に遠い昔を思い出させた。
彼らに一番近づきたければ正面に立って、挨拶すればいい。
シロクマや犬やバク、鹿や猫、フクロウにいたるまで
正面の顔の表情は格別である。
見た事もない(しかもバカデカ!)ペガサスさえも
背中の羽がいつ羽ばたいてもおかしくないほどに
観客の心との距離間に親愛の情を育んでいく。
そして作品はどれも立派過ぎるほどに
たくましく自己紹介をしている。
このファンキーなデフォルメされた
動物たちにぜひ出会ってください。
命に満ちた“肉付き”のよさをアナタの目で。
文責:den 編集:京都で遊ぼうART
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