「Sweet Memory」での最後のレビューは瓜生さん。
同期開催として旧作新作織り交ぜて、三条通りの別のギャラリー(Gallery PARC「Plate journey 瓜生祐子展」)でも発表されている。
以前 neutron kyoto での個展を見逃していただけに同時に二つも観られてなんだか瓜生スペシャルな感じだ。
瓜生さんの絵は遠目からだと色彩のトーンが均一だ。
観る側に過度な情報を与えまいとしているかのようである。
まず木製パネルにアクリル絵具で色を塗った後に、全体を薄い布で覆い、その布の上から鉛筆で輪郭を描き起こしている。
食卓の上の風景。
デコレーションケーキ、幕の内弁当、ピザ、ビスケット、クスクス…
ああ、皿の上の食べ物を風景に見立てて…と得心するのは簡単なのだが、
風景画に欠かせない遠近感も、エッジもここではあえて削ぎおとしている。
彩度を抑揚のないものにしているのも
観客にイマジネーションを喚起させて欲しい
という瓜生さんの計らいであろうと想像する。
食べ物を風景画のように描いた作品という括りでは
多分不完全な紹介の仕方になると思う。
観客はこの絵のどこに入り込むか、どこから観るかを楽しむ。
これは作者が楽しみながら描き、尚“描き切らず”にいることを含めての作品だと思う。
猶予を残すというのは作家としてはしんどい。
もっと立体的に描いたらとか、もっとヴィヴィッドに、とかは誰でも考える。
しかしその絵は飾った瞬間に完結してしまうだろう。
はっきり言えば、これらの絵の中に“器用さ”といった
画家としての武器はそのなりを潜めている。
瓜生さんはこれらの絵のキャプションを
観る人がそれぞれにつけたらいい、とそんな風に思えてくる。
観客が入り込む余地を残しつつ、
観客の口の中が甘くなったり、酸っぱくなったりすることを望んでいるのかも。
どことなくヨーロッパのどこかの国の絵本の挿絵のようなテイスト。
やはり綿布の効果は絶大だったようだ。
当たり前の日常にみるカウンターの上の、テーブルの上の食べ物について
視覚が占める時間はつかの間のうちに去っていく。
目的はあくまで食べることであって、観ることではない。
だからこうして絵にとどめておく。
これらの絵に共通しているのはいずれも
スプーンを、フォークを、箸を入れた後である。
食べ進むうちに皿の上の物体は確かにだらしないものになる。
しかしそこには優先順位や
食べ方によるその人の現在の心持ちというものが反映される。
話はそれるが、粗相のないように食べようと腐心する最初の
恋人とのディナーや、育ちをどうのこうのと指摘されるのを心配して緊張を強いられ、かえって肉を飛ばしてしまったりと、
こと食べる事に関するエピソードは誰にでもあるものだ。
本来は抽象画を描かれていた瓜生さんが
カレーを食べていた時にライスは山に、ルーは海に見えてくる。
ライスのガケが崩れ、島ができたり、池になったりと…。
そして最後は皿だけになる。
「ごちそうさまでした」
これが制作の発端であるから、みんな安心するのだ。
そうして得たインスピレーションを
毒々しく、また可笑しみをもって表現とするのも美術だし、
こうして儚く、淡く(しかもファンシーに陥らない寸止め)
“ゆっくりと平和に”観られる作品というのも、やはり心を平安にする。
文責:den 編集:京都で遊ぼうART
→ケーキと権威...「sweet memory―おとぎ話の王子でも 」展(京都芸術センター)(1)
→涙腺の共感を琥珀に閉じ込める...「sweet memory おとぎ話の王子でも 」展(京都芸術センター)(2)
→食べ物で遊んではダメ、って言われました?...「sweet memory おとぎ話の王子でも」展(京都芸術センター)(3)