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何故気がつかなかったのだろう。生誕110年二人の日本画家、東山魁夷と田中一村

投稿:2018年9月10日

京都では、30年ぶりに東山魁夷の大回顧展が開催中です。

戦後の昭和期の「国民的風景画家」と呼ばれ、昭和期には誰もが知る日本画家です。

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そうしてもう一つの展覧会が佐川美術館で開催されています。『生誕110年 田中一村展』です。「田中一村」展が巡回するのかと、お盆に出かけていきました。(9/17まで)東山魁夷展に出かけた後、大矢鞆音著『もっと知りたい 田中一村 作品と生涯』を読んで初めて気が付きました。二人ともに「生誕110年」だったと。東山魁夷展では、「田中一村」に言及した解説はありませんでしたが、田中一村展ではそういえば「東山魁夷と東京美術学校で同期だった」とあったかもしれません。

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東山魁夷展では、終戦前後に相次いで家族が亡くなり、妻以外の身寄りもなく、自宅も空襲で焼失し、失意のどん底にいたときに、写生に出かけて目にした風景を描いた《残照》から始まります。気負うことなく素直な目と心で描かれた作品です。東山魁夷39歳でした。この作品で日本の画壇に改めて登場し、昭和26年第6回日展では審査員として《道》を出品し、自分の前に開けた道をこの作品に描きました。

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以後東山魁夷は、大きなスランプや休憩もなく、国内外の写生遍歴をもとに静けさと安らぎのある「東山魁夷の風景画」を描き続けました。その集大成となったのが『唐招提寺御影堂障壁画』です。今回の展覧会では再現展示が注目されています。制作に10年を費やして完成しました。これによって名実ともに「国民的風景画家」となったと言えるかもしれません。
東山魁夷は、横浜で生まれますが、神戸に転居して、海と山に近い神戸で育ち、洋画家の小磯良平や版画家の川西英などが在校した兵庫県立第二神戸中学では、油彩を描いていました。中学の最終学年で画家を志望した魁夷は、日本画ならと父の許しがあって日本画科を受験することにしましたが、京都で帝展、大阪で院展を見たくらいで、特別な予備知識もなかったそうです。同期には橋本明治、加藤栄三、山田申吾、そして田中一村も居ました。

田中一村の父は彫刻家でした。一村は父の指導の下に南画を描き始め、7歳の時児童画展で天皇賞(文部大臣賞とも)を受賞し、「神童」と呼ばれ、この頃早くも「米邨」と号し、天才ぶりを発揮し、市立芝中学には特待生として入学して、南画制作に励みました。東京美術学校に入学する頃には、一村はすでに南画の世界では知られる存在でした。東山魁夷が東京美術学校に入ってから卒業するまで特待生であったことは、つまり東山が入学後に懸命に勉強したということでしょう。東山はドイツへ留学し、そのまま日独交換留学生としてベルリン大学で西洋美術史をもみっちり勉強します。若い頃の西洋美術体験が東山の根幹にありました。
ところが一村は、3か月で東京美術学校を辞めてしまうのです。すでに南画家として通用していた一村には、一からの勉強は必要なかったのかもしれません。

東京美術学校の同期生たちは、昭和6年春に卒業し「花の六年組」と詠われた人気作家のスタートだったそうです。それと軌を一にして一村も南画と訣別し、新しい画風を模索し、写生に明け暮れる日々を送ります。一村は後に待ち受ける人生が厳しいものであったことから敢えて強調はされていませんが、東山同様に、兄弟両親を次々と亡くしています。戦争中には体調を崩し、闘病しながら観音菩薩像なども描いています。

親戚を頼って移り住んだ千葉の風景を丹念に写生し、端正な日本画に仕上げ、琳派風の鮮やかにして瀟洒な花卉図も描いています。すでに後の奄美の美しい色彩に通じます。東山が《残照》を発表した年に、一村も《白い花》で青龍社展に初入選し、「一村」と改名します。その後団体展へ挑戦しますが、落選。その頃の日展の審査員は東京美術学校の同級生が名を連ねています。団体展は、その時代の「流行り」があり、琳派と南画をMIXした、確かな技量の一村の作品は時代に合わなかったのかもしれんせん。落選続きの一村は、南へ向かいます。四国、九州、紀州と旅行し、奄美行を決意します。東山は北欧や信州の山に惹かれ、一村は南の開放的な海に導かれたのでしょうか。

昭和33年院展への落選作を焼却し、家を売り、数百冊ものスケッチを火にくべて、一村の大成を願う姉を残して奄美へ旅立ちます。奄美の人々は温かく南国の亜熱帯の植物や珍しい鳥や蝶は一村を魅了しました。54歳にして紬工場で染色工として働き始め「画業10年計画」を立てます。5年働き、3年は画業に専心する。やがては中央に打って出る思いも秘めていたでしょう。57歳の時に彼を支え続けてくれた二人の恩人を相次いで喪います。若い頃の孤独とは比にならないほどの孤独感であったでしょう。59歳で紬工場を辞め、ひたすら絵を描きます。私たちが知る田中一村の奄美での作品の大半はこの時期に描かれたものだそうです。絵に没頭できる日々を喜んでいます。亜熱帯の植生に鳥や蝶、その隙間から覗く海景が奄美の自然を引き立たせています。3年の絵画制作の後再び紬工場で働きだすも、すでに62歳となり、体はそれまでの無理がたたり働き続けることは出来ませんでした。

東京美術学校の同期生たちは、文化勲章だの、芸術院会員だのとなる一方で、友人の一人加藤栄三は自死し、一村も「画業10年計画」を完遂することなく昭和52年69歳の生涯を終えることになります。

その死の7年後の昭和59年に「日曜美術館」で「異端の画家田中一村」が放映され、大きな反響を呼んだそうです。知られざる画家の発掘でした。昨年でいえば「不染鉄」も大きな反響をよびましたね。これまで観たことのない「絵」でした。作品集の出版、巡回展と徐々に知られるところとなりましたが、奄美大島に『田中一村記念美術館』が開館したのは平成13年です。今年の巡回展に合わせての日曜美術館で『田中一村 奄美の陰影』が放映され、佐川美術館への巡回では開館以来記録的な入場者数になったようです。妥協のない絵画制作への取り組みと、その制作資金の捻出に厳しい生活を強いられる一村。しかし、田中一村が全てを捨てて奄美へ行かなかったならあの作品は生まれませんでした。

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作品は、画家そのものです。東山の画業に向き合う真摯な姿勢と、精進の日々が東山独自の作品となり、奄美の自然は一村にしか描けない作品となって結実しました。
東山魁夷にとっては「描くことは祈り」、田中一村にとっては「描くことは生きること」であったでしょう。

【参考】東山魁夷展@京都国立近代美術館についてはこちらのブログもご参照ください。
『「描くことは祈り」東山魁夷の大回顧展です。@京都国立近代美術館』
    ⇒ http://www.arthajime.com/writers/?p=10764


 



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