※この記事は掲載時(2010年8月)の情報に基づきます。
京都MUSEUM紀行。第三回【駒井家住宅】
二階のゲストルーム。
後ろのガラスケースは駒井博士のお土産コレクションです。
駒井博士は欧米への留学や研究のために訪れた旅先で、昆虫や動物の小物などを買い求めては家に持ち帰っていました。留学や中国への研究旅行に同行していた静江さんも、芸術品などを収集されていたようです。そのお土産コレクションは二階の来客用寝室(ゲストルーム)に展示されています。
しかし、どんなにあちこちに旅をしても、博士にとってこの家に対する愛着に勝るものはなかったのかもしれません。実際に、駒井博士はこのような文章を残しています。
「家が続々建って花畑が減じても、今のところではなお空くばかりの田園味がのこっておる。
(略)それだからどこへ旅しても北白川に帰らねば落ち着かぬ」
(昭和4年9月10日大阪朝日新聞)
元々、北白川の周辺は田園の広がるのどかな農村地帯でした。駒井家住宅が建てられた当時は、まだその風景が残っており、周りにはほとんど建物がなかったといいます。(同時期に建てられた隣家の喜多家住宅くらいしかなかったとか)
「どんなところに行っても、帰ってこなければ落ち着かない」―どれだけ博士がこの家と北白川を愛していたのか、その思いがこの一言から伝わってきます。
戦前の駒井家住宅の写真(庭側)
手前の草むらは現在は住宅地になっています。
周囲に高い建物は全く見えません。
室内にはクリスチャンだった駒井
夫妻を偲ばせる
聖書や小さな礼拝堂も。
博士は同じクリスチャンで学者だった
内村鑑三にも憧れていたとか。
駒井博士の書斎。
本棚も机の上の備品も博士生前の愛用品です。
(普段は日焼防止のためカーテンがかかっています)
駒井博士は、仕事もこの家でこなしていたのだそうです。 現在も二階の書斎部屋には、当時博士が使っていた品々がそのままの姿で残されています。使い込まれた机や、壁に作りつけられた大きな本棚、山と詰まれた書類やノート。分厚い洋書に専門書…なかには、博士の著作も見受けられます。 ふと見ると、机に向かっている駒井博士の姿がそこにあるような、そんな気もしてしまいます。
サンルーム側のテラスにたたずむ静江さん。
温室前でガーデンパーティを催した際の駒井夫妻。
書斎からは疏水分線の流れが見え、春になれば満開の桜が眺められます。博士は忙しく仕事をこなしながら、ふと窓の向こうの景色を眺め、目を細めていたのではないでしょうか。
また、家には駒井博士が教えていた学生達や、同じ大学の学者仲間達が度々訪れて、論議を交わしあっていたといいます。駒井家に残された写真にも、駒井夫妻が客人とガーデンパーティを楽しんでいる姿が残されています。また、静江さんは日本基督教矯風会(きょうふうかい)で京都支部長を務めたり、その日本代表の一員として国際会議に出席したりと大いに活躍されていましたが、その矯風会の集まりにも、駒井家住宅はよく使われていたそうです。
のどかで自然溢れる風景と、訪問者や笑顔の絶えない賑やかなひととき…まさに、「理想の家」です。
駒井博士と静江さんは、この「理想の家」をこよなく愛し、終生この家で過ごしました。
しかし、その一方で、この家はまた数奇な歴史を辿ることにもなったのです。
二階と一階を結ぶ階段。滑らかな曲線の手すり、ゆったりとした幅、段差が低めの設計はヴォーリズ建築らしいポイント。窓は建築当時のすりガラスがそのまま残されています。西日が差すと暖色の光に包まれ、まるでセピア色の写真のような雰囲気に。
途中の踊り場横に、シャワールームにされてしまった物置部屋の扉があります。
第二次世界大戦の終結後、日本にはアメリカの占領軍(GHQ)がやってきます。それは京都も例外ではありませんでした。
その時、何と駒井家住宅は将校住宅として接収されたのです。恐らく、アメリカの住宅様式を基本に作られた建物だったので、ちょうど良いと考えられたのでしょう。母屋には米軍兵士の家族が暮らすことになり、家主であった駒井夫妻は同じ敷地内にある約10坪ほどの小さな離れで生活することになりました。
この木造二階建ての離れは本宅と同時に建てられたものではなく、本宅を手がけたのと同じ大工さんが、ヴォーリズ設計の本宅と調和するように建てたもの。元は書生さん、下宿していた学生さんのための部屋だったのだそうです。
米軍に接収されている間に、駒井家住宅は内装にペンキを塗られてしまったり、階段横にシャワールームが作られたり、と手を加えられてしまったところもありました。(シャワールームだった部屋の扉は、今も階段の踊り場横に見ることが出来ます)
当時の静江さんが残したメモには、母屋にあった長州風呂(五右衛門風呂)が悲鳴をあげて壊されていったことや、愛する庭で米兵の子どもがボールを蹴って遊んでいる様子が、敗戦のつらさを滲ませながら綴られています。
入居した米兵の家族と。
駒井家住宅が接収されていたと考えられている昭和21年~25年頃の間、少なくとも2組以上の家族が母屋に暮らしていました。しかし、駒井夫妻と母屋に暮らしていた米兵やその家族たちとの関係は、必ずしも悪いばかりではなかったようです。
後年になって、駒井家住宅が現在も保存されていることを知った当時の米兵の家族が、アメリカへの帰国の際に駒井夫妻から贈られた掛け軸を返されたこともあったそうです。添えられた駒井夫妻からの手紙には、米兵家族の親切さや思いやりへの感謝が綴られていました。この家での暮らしを通じて、駒井夫妻と米兵たちとの間には、一種の友情が生まれていたのかもしれません。
接収が終わると、駒井夫妻は再び母屋に戻りました。
そして、夫妻は亡くなるまで、この家で暮らしました。晩年の夫妻を知る近所の人によれば、家の前の疏水沿いを仲良く散歩する姿がよく見られたそうです。
昭和47年(1972)に駒井博士、翌年に静江さんが世を去ると、家は横浜在住のご嫡男・喜雄さん(※1)に継がれその後、喜雄さんの勤め先だった会社の保養所・研修所として使われました。この保養所時代24年間にわたり、会社によって維持管理されたことで、駒井家住宅は壊されることなく保存されてきたのです。
しかし、会社も保養所としては規模が小さかったこともあり、維持管理が次第に難しくなっていきました。そしてついに1997年、保養所は閉鎖されることになります。
「駒井さんとしては、昭和初期のこの時代に京都という場所で駒井夫妻がどういう暮らしをして、何を残したのかということを、次代に伝えたいという想いがあったようです」
と仰っていたのは、ガイドをしてくださった日本ナショナルトラストの土井祥子さん。
平成10年(1998)には、駒井家住宅は昭和時代の住宅建築として初めて京都市指定有形文化財に指定されました。そこで、「駒井夫妻が暮らした足跡をきちんとした形で保存し、一般の人も見ることができる社会の財産にしていく」ということが、駒井家のご親族たっての願いとなっていました。
しかし、親族の大半は横浜や東京など関東で暮らしている方が多いため、京都で家に暮らし、管理するということは難しい状況でした。
そこで、2002年に、財団法人日本ナショナルトラストへ駒井家住宅は「寄贈」されることになりました。
保養所となる頃の駒井家住宅。鹿角のオブジェは保養所時代に付けられたもので、現在は取り外されています。
生前の駒井夫妻と、養子となった喜雄・冨美恵夫妻。駒井家の皆さんは現在も、建物の保存活動・調査や新たに見つかった家具の寄付などで運営に協力されています。
駒井家住宅の家具類は、多くは保養所となった頃に別の場所に移されていたそうですが、
寄贈・一般公開にあたって、可能な限り、駒井夫妻が暮らしていた当時の状態に戻されています。現在も調査によって置き場所が判明したものや、駒井家で新たに見つかったものなどが、随時追加寄贈されているそうです。
また、夫妻亡き後に造り変えられてしまった場所も、文化財として建設当時の状態に復元していく予定で、まずは調査が一通り終了している台所の復元を目指しているそうです。
調査は現在も続けられており、まだ不明な部分も幾つか残されています。
例えば、現在スタッフの事務室として使われている部屋の下には、防空壕が埋められているそうです。もしかしたら、ここに駒井博士の日記などが保管されているかも…とのこと。この家には、まだ見ぬ駒井夫妻の思い出や足跡。少しずつそれが明らかになっていくことは、まるでタイムカプセルを掘り起こしているようです。
日本ナショナルトラストが管理している資産には、持ち主が亡くなり、相続ができず寄贈されたり買い取ったりするケースもあるそうです。その点、駒井家住宅は寄贈者がご存命であり、駒井家の親族の方々が運営や維持管理に協力されていることがひとつの特色となっています。
「寄贈された方が今もご存命で、ご親族の方々も日本ナショナルトラストの会員として一緒に活動を支援して下さっている。その意味ではこの建物は非常に恵まれているし、幸せな建物なんだろうなと思います」と土井さんは仰います。
「理想の家」をこよなく愛した駒井夫妻の思いは、家族をはじめとした多くの人に受け継がれています。だからこそ駒井家住宅は、その姿を今に伝え続けてられているのでしょう。
駒井博士がお気に入りだった温室では座って庭を眺めることが出来ます。こちらでは駒井夫妻について詳しい展示もされているので是非。
現在、駒井家住宅では、日本ナショナルトラスト会員のスタッフさんのほか、平成21年から共同運営しているNPO・アメニティ2000協会の会員を合わせて30名ほどのボランティアスタッフさんが運営に携わっています。皆公募で集まってきた方で、取材の際も何人かの方が訪れた方の案内や、庭木の手入れをされていました。特に庭は放置しておくとすぐに荒れてしまうため、ボランティアの方々が丁寧に手を入れていらっしゃるそうです。季節ごとにお花の植え替えもされています。
ただ、ボランティアさんの多くは神戸や大阪などの方で、京都の方は比較的少数派なのだとか。
「本当は、もっと地元の、京都の人にも知ってもらいたい、来てもらいたいと思っています」(土井さん)
こんな身近にある、素敵な「京都暮らし」のお手本。遠くに住んでいる方はもちろん、京都に住んでいる人も、一度足を運んでみてはいかがでしょうか?
取材にあたりましては、財団法人日本ナショナルトラスト、及びボランティアスタッフの皆様、写真提供にて駒井家の皆様にご協力を頂きました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。
※1 駒井夫妻には子がいなかったため、静江さんの妹である冨美恵さんとその夫、喜雄さんを養子としていた。
※2 財団法人日本ナショナルトラスト
英国の環境保護団体である「ザ・ナショナルトラスト(The National Trust)」を範として、1968年12月に設立された「特定公益増進法人(免税団体)」。国民的財産である美しい自然景観や貴重な文化財・歴史的環境を保全し、利用・活用しながら後世に継承していくことを目的としている。市民参加による保護対象の取得・修復・整備・公開などを積極的に行っている。
駒井家住宅
所在地
〒606-8256
京都府京都市左京区北白川伊織町64
時間
10:00~16:00(入館は15:00まで)
開館日
毎週金曜日・土曜日
(ただし、7月第3週から9月第1週・ 12月第3週から2月末までは休館)
お問い合わせ
電話番号:
075-724-3115(公開日のみ)
03-6380-8511
((財)日本ナショナルトラスト)
FAX番号: 075-724-3115
メールアドレス: info@national-trust.or.jp
公式サイト
■料金
一般:大人500円、中学生・高校生200円、小学生以下は無料(ただし、保護者同伴)
(財)日本ナショナルトラスト会員:無料
■交通のご案内
【電車】
叡山電鉄「茶山」駅下車 徒歩7分
【市バス】
3番 上終町ゆき「伊織町」下車 徒歩2分
5番 岩倉操車場ゆき「北白川小倉町」下車 徒歩4分
204番 錦林車庫ゆき「伊織町」下車 徒歩2分
【駐車場】
無し
京都MUSEUM紀行。アーカイブ
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- 京都MUSEUM紀行。第三回【駒井家住宅】
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- 京都MUSEUM紀行。第六回【京都陶磁器会館】
- 京都MUSEUM紀行。第七回【学校歴史博物館】
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