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2023年度の祇園祭山鉾巡行・及び関連行事(宵山等)は本来の形にて開催予定です。
※状況によりやむを得ず予定が変更となる場合がございます。詳細・最新情報については公益財団法人祇園祭山鉾連合会及び各山鉾町のホームページ等をご確認ください。

祇園祭 2023

〜 京都の街中がミュージアム! 〜

山鉾鑑賞をもっと愉しむためのおすすめポイントを紹介!

鉾と山は、くじ取りの結果順で掲載しています。
※装飾・懸装品については更新・変更されている場合があります。

長刀鉾(なぎなたぼこ)

長刀の向き

長刀鉾のシンボル・大長刀は、刃先の向きも決められています。巡行の際に、刃先が本神である八坂神社や天皇の住まう御所の方には向かないよう、必ず南向きになっています。

和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)

町内では「天王さん」として親しまれる、長刀鉾の守護神。平安末期に源氏方の武士として活躍した人で、身の丈抜群の強力無双の将だったといいます。彼は八坂神社に奉納された三条小鍛冶宗近の長刀を知り、これを手に入れて愛用していましたが、何故か次々と怪異現象が起こるようになったため、「この長刀には神が宿っている証拠だ、それを自分が持っているのは恐れ多い」として、再び神社に返納した、と伝えられています。現在使われている人形は、昭和60年(1985)に京都の老舗人形司・伊藤久重が復元したものです。

長刀鉾の装飾

長刀鉾の懸物は、中国やインドの、16~18世紀製の歴史・美術的にも希少な絨毯が使用されていました。現在は傷みを考慮し、多くは保存され、復元品や新たに新調したものを使用しています。

前懸は日本画家・上村松篁(うえむら・しょうこう。上村松園の子)の下絵による花模様綴織。胴懸物は中国玉取獅子図絨毯、十華図絨毯(複製)。見送りは正面向きの勇壮な竜の姿が印象的な、雲竜波濤文様綴織(中国・明時代のもの。現在使用されえているのは平成17年復元新調品)。

屋根裏には松村景文(まつむらけいぶん/1778-1843)筆の金地著彩群鳥図が描かれ、屋根下の破風(はふ)には、長刀の作者である三条宗近の彫刻が施されています。

蟷螂山(とうろうやま)

実は四人がかりのカマキリさん

カマキリのからくりがトレードマークの蟷螂山。巡行の際には羽を広げたり、首をかしげたり、鎌を振ってみたり、とても愛嬌のある動きを見せてくれます。他の山は神様や人間以外を主役にしたのは、この蟷螂山と鯉山くらいで、実はとても珍しい山です。このカマキリのからくり、実は山の中に人が入って手作業で動かしています。しかも4人がかりというから驚きです。以前は一人が操作していたそうですが、故障防止のために、大事をとって4人で行うことになったのだとか。狭い山の中に4人もの人間が入っているのですから、大変な重労働です。町内の方の努力があってこそ、人気者のカマキリがいるのですね。

ちなみに蟷螂山は本当に至る所にカマキリがあしらわれています。からくりのカマキリのほかにも、金色に光るカマキリの飾り金具などが見つけられます。また、会所にはカマキリがくじを引いてくれるからくりもあり、人気を集めています。町内に何匹いるか、数えてみてはいかがでしょうか。

友禅染の懸想品

蟷螂山の懸装品は、大変色鮮やかでカラフルなものが使われています。これは人間国宝の京友禅作家・羽田登喜男さんによる作品。特にオシドリの文様は独特のデザインで、代表作のひとつとなっています。実は友禅染の懸装品が山鉾に使われたのは蟷螂山が初めてなのだそうです。というのも、友禅染はどうしても色あせがしやすく、長い時間保管するには不向きなため。蟷螂山で使われている友禅染は、特別に強い日差しでも耐えられる特別な染料がつかわれているそうです。

芦刈山(あしかりやま)

山鉾最古のご神体、最古の衣裳

山鉾の中でも最も古い、芦刈山のご神体人形。人形の御頭(おかしら)は天文6年(1537)の銘があり、作者は東大寺南大門の金剛力士像などを手がけた仏師・運慶の孫に当たる康運です。まだ江戸時代より前に作られたものが現在も大切に使われています。また、胴は享保7年(1722)の銘があり、こちらは早瀬河宗兵衛作です。

衣裳も大変古いものが伝えられており、以前使われていた「綾地締切蝶牡丹文片身替小袖(あやじしめきりちょうぼたんもんかたみがわりこそで)」16世紀天正時代の銘のもの。山鉾の中でも最も古い衣裳として、国の重要文化財に指定されています。

この他、現在は使われていませんが、江戸時代に作られた鶴亀蜀紅絲錦裂(つるかめしょくこういとにしきぎれ)及び獅子蜀紅文繻珍小袖(しししょくこうもんじゅちんこそで)なども伝わっています。

鶴にライオン!?一度見たら忘れられない、前懸と見送り

芦刈山で現在使われている前懸と見送のひとつは、近代日本画家の山口華楊の作品を下絵としたもの。見送りは鶴の図、そして前懸は堂々とした体躯の雄ライオン(「凝視」)です。繊細なタッチで描かれたライオンの姿は一度見ると忘れられません。宵山の夜、暗がりの中でみるとまるで闇の中からこちらの様子をうかがってぬ、と現れてきたように見えます。

胴懸は尾形光琳の名作「燕子花(かきつばた)図」を下絵にした綴織が用いられています。また、このほかにも豊臣秀吉の陣羽織の図柄を参考にした、青の鮮やかな胴懸もあります。こちらはよく見ると確かに陣羽織の背中を向けているように見えるかも。じっくりとごらんください。

木賊山(とくさやま)

桃山時代のご神体「老翁像」

木賊山のモチーフとなっている謡曲「木賊」。誘拐されて父親と別れた若者が、成長してから父親に逢おうと故郷・信濃に着くと、木賊を刈る老人に出会います。老人は子供をさらわれた過去があり、わが子にめぐり合えないかと家に旅人を泊めていると身の上を語り、わが子が好きだった舞を子を偲びながら舞って見せます。それを見た若者はその老人が生き別れた父であることに気づく…という物語です。

老人が失くしたわが子を思いながら舞う場面を表現しているため、クチを少し開いて虚空を見つめるその表情は哀愁が漂い、正面から見るととても悲しげです。

このご神体自体は現存するものの中でも特に古く、桃山時代の作品といわれています。足台には江戸中期・元禄5年(1692)の文字があることから、少なくともそれ以前のものであろうとされます。奈良仏師の作とも言われています。

ウサギとコウモリの飾り金具

木賊山のユニークなポイントは飾り金具。角房の掛金具は武将の軍配を思わせる唐団扇型。団扇のふちは曲がった木賊がデザインされ、その中に銀色のウサギがあしらわれています。また、欄縁の角には金の雲に乗った黒漆仕上げのコウモリがあしらわれています。このデザインは夕暮れの雰囲気を表現したものだそうです。コウモリは漢字では「蝙蝠」と書き、「福」の字を連想させることから幸福を呼ぶものといわれ縁起物とされていました。

函谷鉾(かんこぼこ)

稚児人形「嘉多丸(かたまる)」

函谷鉾は、はじめて生稚児ではなく稚児人形を乗せた鉾でもあります。

もともと函谷鉾町の周辺は南側が武家(松平阿波守)の屋敷、北側は公家の鴻池(こうのいけ)家の宅地になっていたため、稚児を出せる町人の家が少ない地域でした。そのため、鉾を復興させる際に以前町内に住んでいた仏師・七条左京という人が稚児の代わりに人形を乗せる許可を得、自作の稚児人形を乗せたのです。

そのときにモデルとしたのが、ちょうど年頃だった左大臣の長男、一条実良(いちじょうさねよし)でした。人形の名前「嘉多丸」は彼の父である左大臣の命名で、その際には人形の衣装一式と八坂神社を示す「祇園牛頭天王」の字を記した掛け軸が贈られました。嘉多丸は豪華なお祭り用の金襴衣装で着飾って、会所で訪れる人々をお迎えしています。

祇園祭にヨーロッパの香り。「ゴブラン織り」のタペストリー

ゴブラン織りとは、羊毛を使って織り上げた「毛綴織」と呼ばれるものです。

函谷鉾の前懸に用いられているものは祇園祭で使用される前懸では最大の大きさで、16世紀にベルギーで作られたものです。町内の商人・沼津宇右衛門という人が、享保3年(1718)に寄贈したものだそうですが、記録を辿ると元は寛永10年(1633)にオランダ商館長が時の三代将軍・徳川家光に献上したものと記されているそうです。

図柄となっているのは、旧約聖書の「創世記」に登場する「イサクに水を供するリベカ」の物語。別名「イサクの嫁選び」ともいわれます。アブラハムの家に仕えるエリアサルという老人がリベカという娘に水を求めた場面が中央に、下のほうにはエリアサルがリベカに腕輪を送り、アブラハム家の息子のイサクとリベカが婚約する場面が描かれています。

キリスト教文化に親しい西洋の人にはおなじみの場面のようで、明治時代にこれを見たドイツの使節団の人が「リベカの話だ」と記録しているそうです。しかしこのタペストリーがきたときの日本はまだ鎖国中でしたし、あまり聖書の物語が知られてはいませんでした。恐らく人々はにぎやかな図柄に「これは西洋の人の酒宴の様子だ、お祭りにはぴったりだ」と考えて、鉾の前懸として用いたのでしょう。

現在は平成18年に復元新調したレプリカが用いられていますが、現物も会所で見ることができます。

郭巨山(かっきょやま)

屋根と「乳隠し」

他の山が朱傘を山の上に建てるのに対し、郭巨山は唯一立派な日覆い障子の屋根を用いるため、一目で区別ができるようになっています。そしてもう一つ他の山と違うのが、「乳隠し(ちかくし)」と呼ばれる飾り板を使っていること。郭巨山では、この乳隠しに胴懸を吊るして、その上に欄縁と呼ばれる漆塗りの囲いを乗せて組み立てています。

本来、胴懸は「乳」と呼ばれる小裂に吊るすのですが、見栄えが悪くなってしまうため、邪魔に思われていたのだそう。それを隠すために取り付けられたのが「乳隠し」でした。これが発達したものが欄縁なのですが、郭巨山では他の山と違い、欄縁の下に「乳隠し」を重複して取り付けています。「乳隠し」は欄縁の下に帯状に少し見えるだけなのですが、金地の法相華(ほうそうげ)文様が優美なデザインは、桜や菊を透かし彫りした欄縁とぴったり合うデザインに作られており、とてもよいバランスになっています。

綾傘鉾(あやがさぼこ)

お囃子に踊りを楽しめる、パフォーマンス満載の鉾

綾傘鉾は、優美な織物を纏った傘鉾と、お稚児さん(主に幼稚園~小学校の子供たちから選ばれます。数少ない生き稚児を備えた鉾です)そして棒振り囃子で構成され、山鉾巡行の際には舞と音楽を披露しながら進んでいきます。進んでは立ち止まり、パフォーマンスを挟みながら進む姿は見ていてもとても楽しいものです。
囃子方は、棒を持った「棒振り」と太鼓を持ちと打ち手のペア「巡柱(じんちゅう)」の舞手と、笛や鉦(かね)で音楽を奏でる人たちで構成されます。棒振りは赤い髪(赤熊(しゃぐま))、巡柱は面を被り、双方派手な衣装を身に着け、お囃子に併せて舞を披露します。彼らの姿は17世紀(江戸時代)に描かれた「洛中洛外図」(佛教大学所蔵本)にも登場しており、衣装はほぼ現在と同じです。

祇園祭と壬生の人々

現在囃子方を担当しているのは、綾傘鉾の町内の方ではなく壬生六斎念仏(重要無形文化財)の保存を行っている方々です。なぜ別の地域の人が関わっているのでしょう。実はこれには由来があり、江戸時代に出版された祇園祭のガイドブック「祇園会細記」(1757)に囃子方として壬生村から7人が参加したという記述が残されているのです。昔からお寺で狂言などが催されてきた壬生の地域には、お囃子が演奏できる人が多く暮らしており、その腕を見込んでのことと考えられています。このことから、綾傘鉾が復興された際に、壬生の地域の方々も参加するようになったのです。

棒振り囃子は巡行時のほか、宵山の際にもリハーサルも兼ね、会所外で披露されます。現在舞囃子を行うのは綾傘鉾と四条傘鉾のみ。ぜひ一度、御覧になってみてください。

伯牙山(はくがやま)

徹底してチャイニーズにこだわった山

山鉾は、当時の珍しいものや新しいもの、立派なものを出来るだけ使おう、という風潮から、いろいろな物が後から追加されていくため装飾に統一性がないものが多くあります。しかし伯牙山だけは唯一、題材が中国の物語であることから懸物も装飾品も中国風に統一しています。中国からの輸入品を使用することはもちろん、日本製であっても図柄はちゃんと中国風になっているのが特徴です。

中国の縁起物が満載!

伯牙山で特に印象的なのは、角に立てられた真っ白な御幣と、前懸として正面に垂らされる掛軸。これは慶寿裂(けいじゅぎれ)というもので、長寿のお祝いの際に贈られる縁起物です。伯牙山で使われているのは中国・明時代の作品(15世紀。昭和63年に新調)で、上下にはおめでたい内容の漢詩文、中央には仙人や瑞雲舞鶴といったこれまた長寿を示す演技のいいモチーフが織り出されています。

後ろの見送りには麒麟に乗る女仙、白鷺を抱く女仙、孔雀を従える仙人、虎を連れる仙人、船を操る仙人と、さまざまな中国の仙人が生き生きと動き回る姿が見られます。(京都西陣の柳絲軒製『三仙二仙女刺繍』)。また胴懸には中国では鳳凰のモデルともいわれる尾長鳥と、中国の縁起物があしらわれています。

菊水鉾(きくすいぼこ)

井戸×能、町のイメージを形にした「菊水鉾」

菊水鉾の名前の由来となった「菊水の井戸」。現在も鉾町の一角に、井戸の跡が残されています。

この井戸は室町末期、千利休(せんのりきゅう)の師匠でもある茶人の武野紹鴎(たけのじょうおう)の屋敷「大黒庵」にあったもので、実際にお茶を点てることにも使われた名水でした。紹鴎はその水の良さを「菊の露を飲み700年以上生き続けた童子(菊慈童)」の登場する謡曲にちなみ、「菊水」と名付けました。 また、菊慈童の物語は、能の舞台でも演じられます。ちょうど井戸のあった場所は10年ほど前まで金剛流の能楽堂があった場所でもあり(現在は京都御所近くへ移転)、能とも関連の深い場所といえます。 そのため、稚児人形は能楽の衣装を身につけており、巡行の際に引っ張る合図を出している先導役の方も、烏帽子をかぶり、能衣装風の姿をしています。

ちなみに合図を出すときに使う扇子も、菊水鉾は菊の形のものを使っています。巡行時や曳き初めの際はご注目ください。

菊水鉾とお茶

由来となった井戸が茶人・武野紹鴎ゆかりのものであることから、菊水鉾では宵山の期間中に町内で茶席を開催しています。一般の方でも楽しめる茶席も用意されているので、訪れた際には休憩がてらお茶を点てて頂くのも良いかもしれません。

また、数年前からはこの祇園祭の茶席のためにつくられた献上菓子「したたり」が振る舞われます。菊の露をイメージした黒糖を使用した琥珀羹です。透き通った琥珀色は見た目にも涼やかで、この菓子のために訪れる人も多いそう。製造元の亀廣永(かめひろなが)さんでは通年購入可能なので、祭り期間中に行けない方はお店にお問い合わせしてみて下さい。

油天神山(あぶらてんじんやま)

梅原隆三郎「朝陽図」

現在見送りに使われているのは、京都出身の洋画家・梅原龍三郎の富士山の図を元にした綴織です。 梅原龍三郎はちょうど油天神山の近くの染物問屋に生まれた彼は、日本の伝統的な美術とヨーロッパで学んだ油彩を融合させた、装飾的な作品を生み出しました。鮮やかかつ華やかな色彩と、豪快で力強いタッチが特徴で、自由奔放とも評されます。この懸物は織物なのですが、油絵の絵の具が盛り上がるような風合いや鮮やかな色合いも見事に再現されており、遠くから見ると本当に大きな油絵が掛けられているように見えます。

古見送「宮廷宴遊図」―見た目はヨーロッパ、でもメイド・イン・ジャパン!

「朝陽図」の前に使われていた見送り「宮廷宴遊図毛綴」は、とても謎の多い作品として知られています。図柄は西洋の人々が主演を楽しんでいる様子が描かれ、鶏鉾などで用いられている西洋のゴブラン織りの作品と同じように見えます。しかしこれ、実は下絵も日本で描かれ、京都の西陣で織られたという純国産の作品なのです。

見本になるような絵も見当たらないそうで、おそらく想像で描かれたのだと考えられていますが、江戸中期に作られたものなのですが、江戸時代といえば鎖国の真っ最中。そんなときにどう見ても西洋風の作品が作られたというわけですから、驚きです。 現在巡行では使われていませんが、宵山の際には会所に飾られる場合もあるので確認してみてください。

太子山(たいしやま)

中国にインド、ちょっとエキゾチックな太子山の装飾

太子山の前懸は、秦の始皇帝が暮らしたという宮殿の様子を描いた刺繍。1999年に新調されました。緋色の羅紗地が鮮やかな作品です。背景には中国風の建物、手前には馬車に乗った始皇帝と従者たちの姿が見えます。阿房宮は秦の始皇帝が長安(西安)の北西に造ったという大宮殿ですが、後に楚の項羽に国が滅ぼされた際は、三日間も燃え続けたといわれています。

また、胴懸は安永6年(1777)に購入されたという「金地孔雀唐草図」。インド刺繍の作品です。地の部分が金糸で作られ、非常に細かく唐草文様を刺繍した大変豪華なもの。明らかに日本のものとは異なる、エキゾチックな雰囲気を感じさせます。

また、水引も大変ユニーク!水引は布作品を使う山鉾が多い中、太子山は紺色の組みひもを七宝模様に編んでたれ下げています。金色の鮮やかな胴懸によく映えます。

保昌山(ほうしょうやま)

赤が鮮やか、円山応挙下絵胴懸。

保昌山は前後左右の懸物を、江戸時代の京都の売れっ子絵師・円山応挙が下絵を手がけたことで知られています。どれも地の緋色がとても鮮やかな美しい作品です。モチーフはどれも中国の人物や故事が用いられています。
前懸は「蘇武牧羊図」。前漢の武帝に使えていた蘇武という男が、19年も捕われの身になり、その間無人の野で牧羊夫として雁に便りを託して故郷に無事を伝えたという話です。 右胴掛は「張騫(ちょうけん)虎図」。張騫も蘇武と同じく前漢の武帝に仕えた人で、戦の際に匈奴に捕えられ、13年目に帰国。経験を変われて西域と交流交易を先導した人です。
左胴掛は「巨霊人白鳳図」。巨霊とは白髪に童顔の老人の姿をした河の神様で、流れを遮る山を崩し足で踏み分けて河を通したといわれます。 そして後掛には中央に龍、左右に岩と波が描かれています。

鶏鉾(にわとりぼこ)

トロイ戦争の見送り

見送り(鉾の後ろ側)に用いられているのは、16世紀にベルギーで作られたゴブラン織(毛綴)。日本に現存するものでは最も古いもののひとつで、鯉山のものと合わせて、重要文化財に指定されています。

モチーフは古代ギリシャの叙事詩「イリアス」の歌われた、トロイ(トロヤ)戦争の物語です。ギリシャの英雄・アキレスと決闘をすることになったトロイの王子・ヘクトルが妻と子に別れを告げているシーンが、細密に織り出されています。下絵はなんと、イタリア・ルネッサンスの巨匠、ラファエロが描いたものだとか…。

傷みや退色が激しくなっていましたが、近年復元新調され、作られた当初の色合いが蘇りました。オレンジやピンク、青、緑と華やかな色合いが美しく、背景にはヨーロッパらしい町並みもあしらわれている様子がよくわかります。

江戸時代の初期に購入されたものと考えられていますが、実はこの作品ともともと繋がった絵になっていたといわれているのが、滋賀県長浜市の曳山祭で使われる鳳凰山見送。こちらは背景に馬に乗って戦う兵士たちの様子が、手前に貴婦人(こちらがヘクトルの妻のようです)と侍女たちが描かれています。元がひとつだった織物が、日本に輸入された後に真ん中で二つに切り離されて、それぞれの地域に伝えられ、今に至ったのです。不思議な歴史の縁が感じられます。

そのほかの懸物

鶏鉾の胴懸は、以前はペルシャ製の花文段通(絨毯)が用いられていましたが、近年は清水寺に伝わる絵馬「朱印船」の柄に替えられています。この図柄は、鶏鉾に祀られている守護神・住吉明神にちなんだもの。住吉明神は航海の神様なので、波間を航海する船の絵が選ばれたのです。また、鉾の先導役の方が着る浴衣も波文様があしらわれています。

白楽天山(はくらくてんやま)

ベルギーにフランス、ヨーロッパの名品タペストリーが並びます。

ヨーロッパのタペストリーを懸物に使っている山鉾はいくつかありますが、白楽天山は複数使用して飾っている珍しい山。前懸は鶏鉾や鯉山のものと同じく、ギリシャの叙事詩「イリアス」のトロイ戦争の一場面をモチーフにしたもので、陥落する城からトロイの将軍アイネイアスが老いた父を背負って助けだす姿が織り出されています。しかし、なんだか長細い気がします。これは元の大きなタペストリーの一部を寸断して使っているため。他の部分は、滋賀県の大津祭の曳山(月宮殿山、龍門滝山)の見送りとして使われているそうです。

胴懸に用いられているものもベルギー製で、右は「女狩人図」左は「農民の食事図」です。前懸に比べて、ちょっとほのぼのした雰囲気が感じられます。
見送は複数あり、山鹿清華作の清朝離宮を描いた「北京万寿山図」や、18世紀フランス製のタペストリー「水辺の会話」などがあります。

実は一番「松が高い山」なんです。

白楽天山のご神体のひとつ・道林禅師は、松の木の上で生活していたと伝えられています。その高さは、カササギの巣と同じ高さだったとか。現在はカササギは都会だと電柱のてっぺんに巣を作ったりしているので、かなりの高さです。この話になぞらえ、白楽天山で上に立てられる松の木はとにかく一番高さのあるものを選んでいるのだそうです。

四条傘鉾(しじょうかさぼこ)

子供が主役の棒振り囃子

四条傘鉾は綾傘鉾と並び、山鉾のもっとも古い形を残す「傘鉾」です。傘の上には赤い御幣と若松が飾られており、傘の下に入るとご利益があるとも言われています。

綾傘鉾と同じように、巡行の際には棒を持って音楽に合わせて舞う「棒振り囃子」が披露されますが、四条傘鉾は子供が担当しているのが特徴です。

先頭で棒振り踊りを披露するのは、小学校4年生くらいまでの少年たち。綾傘鉾は棒振りは一人でしたが、こちらは二人一組。頭に被るかつら(赤熊/しゃぐま)も黒色です。そして花笠を被って楽器を演奏する囃子方が6名、計8名で構成されています。舞手は大きくなって衣装が着られなくなると囃子方に転ずるのだそうです。

四条傘鉾の棒振り囃子は、消失以来の長い休み期間の間に失われてしまっていたため、復興の際、昭和63年に新たに復元されました。その際には、室町時代に京都から広まった「風流踊り」が参考とされ、特に滋賀県の滝樹(たき)神社に伝わる「ケンケト踊」がベースとなっています。綾傘鉾のそれのようなアクロバティックな激しい動きではありませんが、子供たちがゆったりと舞う姿はとても微笑ましく、人気があります。

孟宗山(もうそうやま)

師弟の競演:幸野楳嶺(こうのばいれい)と竹内栖鳳(たけうちせいほう)

孟宗山の装飾は、明治大正期の京都画壇で活躍した幸野楳嶺(こうのばいれい)と竹内栖鳳の、師弟の競演を見ることができます。

幸野楳嶺は江戸末期から明治初期に活躍した人で、彼も鉾町(四条新町)の生まれだったこともあり山鉾をモチーフにした絵を描いたり、装飾品の下絵を多く手がけています。欄縁に取り付けられた金具「彫金群鳥図(ちょうきんぐんちょうず)」が楳嶺下絵によるもので、千鳥や鳳凰、ヤマガラ、カワセミ、孔雀に鷹にツバメなど、15種類の鳥が描かれています。

楳嶺は大変教育熱心な人で、数多くの優れた画家を育てました。竹内栖鳳も彼の弟子で、中でも特に優秀といわれた4名(楳嶺四天王)のうちの一人でした。

栖鳳の手がけた見送り「白地墨画叢竹図(しろぢぼくがそうちくず)」は、八坂神社の氏子でもあった栖鳳が喜寿(77歳)の祝いとして描いたものだそうです。白綴地に肉筆で墨一色で描いたこの絵は、ほかの山鉾が色鮮やかな懸装品を使っている中で唯一で、かえってよく目立ちます。

京都を代表する日本画家師弟の競演、訪れた際はぜひじっくりと見てみてください。

月鉾(つきぼこ)

大火を免れた歴史ある装飾品の数々

「動く美術館」とも呼ばれる月鉾は、歴史ある装飾品が数多く伝えられています。古い鉾頭の三日月や天王座のご神体(月読尊)が持っている櫂(かい)には「元亀四年(1573)」の刻銘が残されています。関ヶ原の合戦が1600年の出来事ですから、江戸時代よりも前の大変古いものであることがわかります。

また、他の多くの山鉾が被害を受けた元治元年(1864)の大火の際も、失ったのは真木だけでした。他の装飾品は町衆の努力で守られ、現在も目にすることができます。

月鉾で江戸時代の絵師・円山応挙の作品を見る

月鉾の名物のひとつは、屋根裏の「金地彩色草花図」です。これは天明4年(1784)に、絵師・円山応挙が描いたもの。初夏から初秋にかけての草木が写実的に、かつ繊細に描かれています。絵が描かれた当時、円山派は京都では一番の売れっ子絵師集団でした。そのトップにあたる応挙に直々に注文をしたわけですから、当時の町衆たちの気概と財力が伺えます。懸物(上水引)に使われている「双鸞霊獣図(そうらんれいじゅうず)」も円山派の下絵によるもので、こちらは応挙の孫である円山応震が手がけています。

そのほか、天井の源氏物語をテーマにした「源氏五十四帖扇面散図(げんじごじゅうよんちょうせんめんちらしず)」も見どころ。こちらは現在の豪華な鉾を作り出した立役者とされる岩城九右衛門(いわきくうえもん)の作品です。彼は月鉾町に暮らしていた富豪でもありました。

装飾は「月」と「水」にご注目を。

月鉾が祀る月読尊は月と水の神様であることから、装飾は「月」や「水」に関係したモチーフが多く使われています。例えば、神様を祀る天王座の下には船があしらわれています。また、見送りは昭和に活躍した染色家・皆川月華(みながわ・げっか)による湖畔黎明図(こはんれいめいず)。軒桁(のきけた)には二枚貝や巻貝の飾り金具がついています。そして屋根の三角形のすぐ下、破風蛙股(はふかえるまた)には波(水)と兎(月)を見ることができます。

月鉾は男性も女性も登ることができますので、ぜひ確認してみてください。

※ちなみに屋根下の波の上を走る兎の下の飾り金具には、星を背負った亀がいます。これは童話でおなじみの「うさぎとかめ」のお話を表したものです。

山伏山(やまぶしやま)

神仏分離前、明治より昔の姿を伝える山

山伏は仏教の流派のひとつ、修験道の修行者たち。それを祀る山伏山では、八坂神社の清祓いとともに、六角堂から法印祈祷が行われ、そして宵山(7/15)には聖護院から本当に山伏がやってきて会所前で祈祷も行います。(かつては町内の代表が山伏の会に同行して修行することもあったとか)また、ご神体に備えるのも仏式に則ったもの。八坂神社の祭りである祇園祭のなかで、仏教の色を濃く残しています。この神道と仏教がミックスされた状態は、明治維新で神仏分離の政策が行われるまではよくあることだったとか。山伏山は昔ながらの祇園祭の姿をいまに伝えているのです。

昔の姿といえば、山伏山では粽の他に「茅の輪」も売られています。茅の輪は粽の原型ともいわれている厄除けの御守りです。会所には大きな茅の輪も用意されており、訪れた人は自由に茅の輪潜りで厄払いをすることができます。

山伏山の装飾品

ご神体は修験者として山に入ろうとする姿を現しており、左手には数珠、右手には道を切り開く斧、腰には法螺貝を身につけています。衣装は修験道のお寺・聖護院から直々に送られた本当の山伏の衣装です。

懸物で面白いのは、両端の水引。下絵は狩野派の絵師が手がけたものですが、蚕を育てて繭から糸を得、機織をして布が織りあがるまでの一連の流れをテーマにした大変珍しいものです。(「中国風俗機織養蚕楼閣人物図」)

占出山(うらでやま)

占出さんは衣裳もち

ご神体の神功皇后は、戦勝占いをした際は既にお腹に子供がいたため、腹帯を幾重にも巻きつけて「戦が終わってから生まれてくるように」と念じたそう。そして新羅との戦を終えて凱旋後に無事子供を生んだといわれています。そのため、昔から安産の神様としても厚く信仰されてきました。占出山のご神体も、腹帯を巻きつけているのですが、後でこの腹帯も安産のお守りとして授与されます。

また、占出山の神功皇后には、安産の礼として数多くの衣裳が奉納されたため「占出さんは衣裳もち」とも言われているとか。宵山で会所に飾られる際も、毎年違う衣裳を身につけていらっしゃるそうですよ。

三十六歌仙と日本三景

占出山の水引は、三十六歌仙図。日本を代表する歌人たちの姿が緋色の地の上に文様のようにあしらわれています。歌人をモチーフにしたものは珍しく、どれが誰なのか考えながら見てみるのも面白そうです。

また、前懸と左右の胴懸は宮島(厳島/前)、松島(左)、天橋立(右)がそれぞれ描かれています。これもちょっと珍しいモチーフです。近年復元新調され、大変色鮮やかで美しい装飾になっています。

霰天神山(あられてんじんやま)

ちょっぴり刺激が強いかも?ベルギー製タペストリーの前懸

霰天神山の前懸のひとつは、16世紀に作られたベルギー製のゴブラン織タペストリー。近年復元新調され、鮮やかな色合いが蘇りました。

上半分には三叉の銛を持ってイルカに乗った少年と、さまざまな海の生き物が描かれ、下半分には花園に腰を下ろす男女の姿が描かれています。

なんと、驚くのが女性の乳房からは水があふれていること!何かの寓意なのでしょうが、ちょっと刺激が強い作品かもしれません。昔の人は、これをどんな思いで見ていたのでしょうか。

上村松篁・敦之の日本画家親子競演

左胴懸には昭和60年新調の上村松篁原画の「白梅金鶏図」、右胴掛は平成14年新調の上村敦之原画の「紅白梅図」が用いられています。

上村松篁は、大正・昭和に活躍した美人画の大家・上村松園の息子。そして上村敦之は松篁の息子で松園の孫にあたります。つまり左右で親子の作品が競演しているのですね。どちらも柔らかで繊細なタッチの上品な絵柄になっています。

ちなみに後の見送りは霰天神山は透かし彫りになっているので、懸物が用いられません。

放下鉾(ほうかぼこ)

お囃子と放下僧

放下鉾の名の由来になっている、天王座に祀られた「放下僧」。

彼らはかつて鉾町近辺の街角で辻説法を行っていた僧侶で、仏教を説くと同時に、手鞠や楽器を使って曲芸を見せるスタイルで人気を集めていました。その流行にのり、鉾に放下僧の姿を祀ったといいます。
その影響でしょうか、放下鉾のお囃子は他と少々変わっており、コンチキチン、と鳴らす鉦(かね)を反対に回して、普通とは逆側を連打する少し曲芸めいた部分があります(乱れ囃子)

鉾が立つ13日以降は、夕方18:30ごろから囃手の方が登って披露してくれるので、注目して見て下さい。

エキゾチックな雰囲気が味わえる、放下鉾の装飾

《皆川泰蔵「バグダッド」》

ひときわ目を引く、見送り(鉾の後の懸物)は昭和57(1982)年につくられた作品。

麻にロウ染されたもので、イスラム風のモスク(寺院)や建物を背に夜闇を羽ばたく白いフクロウが二羽描かれています。作者の皆川泰蔵は大正生まれの京都出身の染色家。モダンなデザインや新鮮な色彩で描き出した独創的な作品が特徴で、世界各国の古都をモチーフにした作品を制作しています。父も染色家の皆川月華で、親子揃って鉾の装飾品を手掛けています。

なお、「バグダッド」の前には文政11(1828)年につくられた西陣織の「錦綴双鳳唐子遊楽図(にしきつづれそうそうからこゆうらくず)」が使われていました。

《その他の懸物》

前懸や胴懸には花文様の絨毯が使われています。これはトルコやコーカサス製。また、以前は16世紀につくられた朝鮮王朝(李氏朝鮮)製の毛綴織物が使われていました。

下水引は江戸後期に活躍した文人画の大家、与謝蕪村が下絵を手掛けた刺繍琴棋書画図(ししゅうきんきしょがず)。

屋根下(破風)正面には、丹頂鶴が三羽あしらわれていますが、これは明治に活躍した四条円山派の画家・幸野楳嶺(こうのばいれい)の下絵を浮き彫りにしたもの。幸野楳嶺は祇園祭を大変愛した人で、山鉾を題材にした作品を数多く描き、昔からの祇園祭の姿を今に伝えてくれています。

岩戸山(いわとやま)

屋根の上にもご神体!

岩戸山の大きな特徴は、屋根の上にご神体がいること。岩戸山のご神体は、天照大神(アマテラスオオミカミ)と手力雄命(たぢからおのみこと)、そして伊弉諾尊(イザナギノミコト)の三体いるのですが、普通は屋根の下に収められるべきところ、伊弉諾尊だけは屋根のてっぺん、松を背にして配置されます。日中や巡行時には、屋根の上からこちらを見下ろしている伊弉諾尊の堂々とした姿を見ることができます。手には釣竿のようなものを持っているのですが、これは日本の島々を作った「国産み」で用いたという天の瓊矛(あめのぬぼこ)です。

装飾の中にも神様がかくれんぼ

名前のとおり天岩戸のお話に題材をとっている岩戸山。天岩戸の物語は、弟の素戔鳴尊(スサノオノミコト)の荒っぽさに嫌気が差した天照大神が、天岩戸に引きこもってしまう…というのが始まりなのですが、実は素戔鳴尊も岩戸山の中に存在しています。どこかというと、そこは屋根の軒裏。ここに施された彫刻には、素戔鳴尊が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)と戦っている場面が描かれているのです。姉の天照大神に追放されてしまった素戔鳴尊は、後に出雲の地で暴れる八岐大蛇を退治し、その土地のお姫様と結ばれる神話があります。山に登った際に、ぜひ確認してみてください。

船鉾(ふねぼこ)

船鉾と大船鉾

船鉾は本来は二つあり、現在見られる「船鉾」は、「出陣の船鉾」とも言われていました。元は「先の祭」(山鉾巡行の前半部分)の最後、トリを務めていたのです。現在の船鉾は江戸後期、天保年間に作られたものです。一方、もうひとつの船鉾「大船鉾」は後の祭(後半)に登場し、出かけていった船が帰ってくる「凱旋」を表していました。船鉾と後祭に登場する大船鉾は対となっており、共に神功皇后の新羅遠征をテーマとしています。船鉾は「出発」、大船鉾は「凱旋」と、それぞれで行き帰りを表しています。

装飾工芸を堪能する

まさに陸を進む船!といった様相の船鉾ですが、工芸品が大変美しい鉾でもあります。とくに目を引くのは、やはり船首にたたずむ黄金の鳥。この鳥は鷁(げき)といい、中国に伝わる想像上の水鳥です。どんな強風にも耐えて飛んでいられるといわれることから、船が風や嵐にも負けず安全に航行できるようにという願いをこめて、船首の飾りとして好んで用いられました。現在の鷁は、宝暦10年(1760)に作られたものです。

また、船尾には船の進む方向を決める舵が取り付けられていますが、こちらは黒漆塗に青貝の螺鈿をあしらった、大変美しい京漆作品です。翼を持った小さな竜が波間を飛んでいるという、船鉾にぴったりの図柄ですが、こちらは狩野派の鶴澤探泉という絵師が下絵を手がけた1792年の作品です。暗いところだと見えにくいので、日中にごらんになるか、夜は懐中電灯などを持参してみることをお勧めします。

4人もご神体が!

船鉾は、神功皇后のほかに彼女の従者を務める磯良,住吉,鹿島の3人の神様も祭られています。つまり、合計4体ものご神体が乗っているのです。ご神体の人形は、元和2年(1616)の銘が入っており、特に古い作品です。

神功皇后は面をつけ、頭には冠、そして大鎧を身に着けた男装した姿になっています。ここで用いられる面(神面)はより古いもので、文安年間(1444-48)の作品です。つまり、まだ室町時代のもの!特にこの面に安産のご利益があるとされているそうで、明治天皇がお生まれになった際には面を宮中に持っていったこともあったのだとか…。

橋弁慶山(はしべんけいやま)

漆の橋に片足一本!職人技を感じる牛若丸の立ち姿。

五条の橋の上でにらみ合う牛若丸と弁慶という有名な場面を現している橋弁慶山。ここで注目したいのはダイナミックな動きをしているご神体の人形でしょう。牛若丸は橋の上に立っているのですが、右手に太刀を持ち、左手は大きく開いて前方へ突き出しています。この時点でもだいぶ不安定な姿勢なのですが、彼を支えているのは橋の欄干に取り付けられた擬宝珠(ぎぼし)に立つ左足一本、しかも下駄の前歯のみ!

この姿こそ風流の真骨頂とされており、特に人形の芯となっている真木とそれを補強する鋼の板、下駄とつながる擬宝珠に工夫があるのだそう。橋は左右4本の親柱に擬宝珠がついているのですが、人形が立つのは右側三つめ。ここの擬宝珠にだけ、下駄の前歯とつなげられるようになしかけが施されています。
また、人形の周囲を囲む欄縁は、橋の先端が飛び出すようなつくりにされており、浮き彫りで波や千鳥、芦を表現して、鴨川の川原を現しているのだそうですよ。

なお、弁慶も牛若丸も、両方大変古い人形で、仏師・運慶の次男とされるの康運の永禄6年(1563)の作品。安土桃山時代のものです。牛若丸の立つ擬宝珠にも天文6年(1537)、刀鍛冶の右近信国の銘があるそう。どちらも安土桃山時代の作品です。

北観音山(きたかんのんやま)

北観音山と南観音山

北観音山と隣町にある南観音山は、名前のとおり一対のいわば「兄弟山」。かつては一年交代でくじ引きをして巡行していたのだそうです。二つの山の結びつきは強く、例えば屋根に取り付ける松は北と南の分を同時に二本用意し、くじ引きでどちらを使うかを決めています。また、南観音山でよい山の夜に行われる「あばれ観音」という行事は、北観音山の観音様に南観音山のご神体が恋心を抱いているのを覚まさせるため、という意味もあるのだとか。

北観音山の懸想品

特にユニークなのは、下水引。金地に、唐(中国)の王様の行列が刺繍されているのですが、旗持や馬車が並びとても賑やかです。中にはよろいを着た動物もいるのがとても面白い一品です。

見送りは以前は寛政3年(1791)製の「唐人物遊園絵図」が用いられていました。これは一見綴折のようなのに、実は刺繍で作られているという手の込んだものです。現在は昭和61年に購入された「日輪鳳凰額百子嬉遊図綴錦」(日輪ほうおうがくひゃくしきゆうずつづれにしき)が使用されていますが、これはなんと17世紀からチベットのお寺にあったというもの!祇園祭のグローバルさが感じられます。

鯉山(こいやま)

躍動感たっぷり!の鯉の像

5月に飾るこいのぼりと同じく、鯉が滝を登ると龍になるという「登竜門」のお話を基にした「鯉山」。山には滝に見立てた白麻緒が垂らされており、ちょうど鯉が滝に向かっているような躍動感ある構図になっています。鯉の周りには波も彫刻されており、欄縁や金具類は皆波文様に統一され、鯉が泳いでいる様子を表しています。
鯉は近くで見るとかなり大きく、子供一人分より少し大きいくらいのサイズです。作者は八幡山の鳩と同じく、左甚五郎です。
ちなみに一緒に山に乗るお社は「八坂神社」。はっきり鳥居に書かれているのでチェックしてみてください。

山全体を華やかに彩るギリシャ神話のタペストリー

鯉山の名物ともいえるのが、懸装品として使用されている16世紀ベルギー、フランドル地方で作られたゴブラン織りのタペストリー(重要文化財)です。鶏鉾や霰天神山、白楽天山などと同じシリーズの作品のようで、古代ギリシャの叙事詩「イリアス」のトロイ戦争の一場面、トロイ最後の王となるプリアモスと后ヘカペーが祈りを捧げる姿が描かれています。
鯉山では元は1枚だったタペストリーを9分割し、主要な場面を見送と胴懸に、左右の端を短冊状にして前懸に、残った上下端を水引にしています。一枚を山に合うようにきれいに分けてしまうとは、作ったベルギーの人も想像出来なかったでしょう。分割の際は大工さんの鑿(のみ)を使ったのだそうです。
分割したタペストリーの裏面は名物裂で覆い、懸物として仕上げられています。これのおかげで、裏面から色が褪せることがなく、現在まで400年前に作られた当時のままの美しい色合いが残されています。現在巡行の際には復元新調されたものが使われていますが、オリジナルも会所飾りとして展示されています。

八幡山(はちまんやま)

八幡山のシンボル、「鳩」

八幡山のトレードマーク的存在なのが、鳩。巡行の際には鳥居の上につがいの鳩が飾られます。向かい合って設置されることから夫婦和合の鳩とも呼ばれ、八幡山の粽もそれになぞらえ夫婦円満のご利益があります。また、宵山の際に授与される鳩笛や鳩の形の鈴はそのかわいらしさから大変人気があります。
鳥居に飾る鳩は江戸時代の名工・左甚五郎の作と伝えられています(左甚五郎は鯉山の鯉なども手がけています)。しかし何百年も使用される間に何度も破損と修復を繰り返し傷みもあることから、2012年に新たに復元新調されました。復元の際の調査で表面に彩色が施されていたこともわかり、新しい鳩は鮮やかに彩色され作られた当時の姿を現在に蘇らせています。会所飾りでは新旧の鳩が両方展示されます。

八幡山の懸装品

八幡山の懸物は見送りや前懸もそれぞれ複数ありますが、豪快で見ごたえがあるのが平成2年に新調された胴懸「紺地三瑞獣図刺繍」。元は江戸後期の作品で、紺地に鮮やかな金糸で唐獅子、麒麟、獏が刺繍されています。力強い絵柄や波文様は武士に厚く信仰された八幡神らしさも感じさせます。
また、細かい部分も見所が多く、欄縁を飾る鶴の金飾りは天保時代(18世紀)のもので生き生きとした動きが特徴です。山を担ぐための舁(か)き棒の先端に取り付ける金具は、笹の葉があしらわれているのですがしっかり虫食いまで表現されていて芸の細かさに驚きます。

会所飾り:海北友雪筆「祇園祭礼図屏風」(京都市指定文化財)

八幡山の会所には、宵山の間、町内で伝えられてきた海北友雪筆の「祇園祭礼図屏風」が展示されます。昭和30年代にお会所の奥にある蔵(山の部品などを納めてあるところ)から発見されたもので、箱書の記録によれば江戸時代(慶安年間)、町内に住んでいたお医者さんから寄進されたものだそうです。上に四条通と山鉾巡行、下は三条通と還幸祭のお神輿の様子が描かれています。八幡山の姿ももちろんありますし、現在は巡行を休んでいる山鉾の在りし日の姿も確認できる、見ていてとても楽しい作品です。2011年に製作された精巧なデジタル複製品が会所の際には飾られるので、ぜひごらんになってみてください。

黒主山(くろぬしやま)

中国の王、琉球の王と伝わった旧前懸

黒主山の旧前懸は、中国・明時代の官服を一枚に縫い合わせて仕立てたものです。
実はこの織物は元々、明の王「萬暦帝」が即位の際に身に着けた衣服であるとされています。それが交易を行っていた琉球王に贈られ、後に琉球最後の王・尚寧王(しょうねいおう)の代に京都にいた彼の師でもある僧侶・袋中上人に贈られて、それを上人が黒主山に寄進した、ということが、記録にも残っています。(ちなみに袋中上人は現在では沖縄の名物になっている「エイサー(太鼓をたたきながら舞う舞踏)」を念仏踊として広めた人だそう)
現在は旧前懸を復元新調したものが使用されています。龍の爪が五本にデザインされているのですが、龍の爪の本数は龍の位を表し、特に五本爪のものは神の遣いともいわれかつて中国では皇帝の象徴でもありました。これはこの前懸の由来を伺わせます。

黒主山の装飾

欄縁の飾り金具は桜、椿、紅葉、菊をあしらった透かし彫り。桜がトレードマークの黒主山にぴったりの、花文様が華やかなデザインです。ほかの懸物も、龍文様と、草花文様が中心に使われています。また、黒主山の飾りといえばご神体の大友黒主が見上げている桜の木。この造花は家の戸口に挿しておくと魔よけになるとされており、毎年巡行後に保管され、翌年の粽に添えられます。

南観音山(みなみかんのんやま)

恋する観音様!?深夜の街をにぎわす「あばれ観音」

最近は大変知名度があがりましたが、南観音山では宵山の深夜に「あばれ観音」という行事が行われます。これは、宵山の夜、日和神楽から戻ってきた囃子方が、ご神体の善材童子を抱きかかえて町内を走り回り、それをもう一つのご神体・揚柳観音を長柄棒の台に載せて追い、町内を三周する、というもの。町内の両端に来ると、観音様を激しく揺するのが見どころです。優美なイメージの強い祇園祭ですが、とてもエネルギッシュな山鉾行事です。このあばれ観音には諸説あり、「巡行のときに静かに座っていてもらうために、夜のうちに大暴れさせておく」とか「北観音山の観音様に南の観音様が恋心を抱いているので暴れることで冷めさせる」…など様々ないわれがあります。が、実際のところはいつから始まったかさえ定かではないのだそう。この行事が終わると露店もすべて撤収、翌日の巡行に向けての準備が整えられます。

南観音山の装飾

軒裏の彫刻は祇園祭ともゆかりの深い、明治に活躍した日本画家・幸野楳嶺が下絵を手がけたもの。正面に太真王夫人、王母と少女が描かれています。

前掛は17世紀の珍しい異无須(いむす)織のペルシャ絹絨緞と昭和50年のペルシャ絨緞。胴掛は花模様のペルシャ絨緞が使われています。

水引や見送は、昭和の巨匠で京都出身の日本画家の加山又造が手がけたもの。見送りの作品にはなんと龍の眼に宝石が埋め込まれています!なお、加山又造は南観音山で使われているうちわのデザインなども手がけているそうです。

役行者山(えんのぎょうじゃやま)

ご神体は3人乗り、舁(か)き山では最大クラスの山

等身大のご神体人形が3体も座すことから、ほかの山に比べ一回りほど大きなつくりになっている役行者山。山に立てる朱傘も普通は1本のところ、ここでは2本になっています。山の中央の洞に帽子(もうす)・掛絡(かけらく/僧侶が普段用いる略式の袈裟(けさ)のこと)・経巻と錫杖を持って座るのが役行者。左で鬼のような顔をして赤熊(しゃぐま/髪の毛のような被り物)を被り斧を手にしたのが一言主神、右で台付の輪宝(仏法の象徴で車輪のような飾り)を手にしているのが葛城神です。役行者は山の中ほどで巡行時には少し姿が見えにくいかもしれませんので、会所で飾られている際にじっくりと見るのをお勧めします。

役行者山の装飾品

水引は江戸中期の作品で、綴錦の名人だった西山勘七の「唐子遊図」。前懸は平成9年の復元新調品で中央に「岩に胡蝶牡丹図」、左右に「波涛飛龍図」と異なる作品3枚をつなぎ合わせてアレンジしたものです。胴懸は左右に向き合う龍の綴錦です。見送りは二種類あり、「昇り龍図刺繍」と昭和57年に復元新調された「唐美人園遊図綴錦」を交互に飾ります。以前使われていた見送は、中国・明王朝時代に官工場(王室お抱えの工場)で織られた「金地唐美人図綴錦」と赤地古金襴(安楽庵裂:あんらくあんぎれ※)で縁取った龍図絽刺の2種類。
懸金具は黄道二十八宿の星が描かれていて、とても美しい作品です。また、松に鈴がついているのも役行者山の特徴です。
※安土桃山~江戸前期の茶人・安楽庵策伝という人が使っていた金襴裂。誓願寺裂ともいい、実際に策伝が役行者山の装束として寄進したといわれるものが、現在広島の誓願寺にも伝えられています。

浄妙山(じょうみょうやま)

場面もリアリティ追求、臨場感たっぷりの武士の山。

人形が人形の頭上を飛び越えていくという大胆な構図が特徴の浄妙山。平家物語の有名な場面「宇治川の合戦」に材をとっています。
飛び越えられているのは筒井浄妙。三井寺(滋賀県)きっての荒法師で、最初に橋の上に進み出て迫る平家の軍勢を前に名乗りをあげます。そして弓で12人を射抜き、11人に傷を負わせ、矢が足りなくなると長刀で5人を切り伏せ…とまさに獅子奮迅の大活躍をします。そこにやってきた身軽な僧兵・一来法師。何とか敵陣の中に一番乗りしたいと思うのですが、浄妙が邪魔で前に出られません。そこで「悪(あ)しゅう候(そうろう)、御免あれ」の一声とともに浄妙の兜に手をかけて宙返りするように飛び越え、一番乗りを果たしました。その瞬間を、見事に浄妙山は表現しています。(アクロバティックなこの戦い方は、僧兵独自のものだそうです)

一来法師は左手一本でほぼ水平の体が支えられており、その技術には驚かされます。上の一来法師の手のひらを下の浄妙の頭に木製の楔でしっかりと固定した上、下の浄妙は土台の役目も果たすので揺れで倒れたりしないよう、深く足首以下を山に固定されているそう。山に取り付ける際も大変時間がかかるのだそうです。何百年も使われてきた仕掛けが折れずに残っているのは、先人の知恵の賜物です。

また、人形が立つ橋桁もこだわりが感じられます。物語では橋の上で浄妙は平家方から大量の矢を射掛けられるのですが、山の橋桁も矢が橋にたくさん突き刺さった様子が再現されています。また、周囲を囲む欄縁には金の浮き彫りで荒波が表され、宇治川の流れを表現しています。

ちなみに浄妙がまとっている鎧「黒韋威肩白胴丸(くろかわおどしかたじろどうまる)」は、室町時代に作られた本当の鎧。重要文化財に指定されています。平家物語には浄妙は黒皮縅の鎧に黒漆の太刀を身につけていたと書かれており、その記述に沿ったデザインになっています。

鈴鹿山(すずかやま)

鈴鹿山のご神体はべっぴんさん

鈴鹿山のご神体、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)は、昔から大変べっぴんさん(美人)と評判だったそうで、毎年男衆が大勢見物に訪れていたそうです。上着の右肩を脱ぎ、烏帽子に朱色の鉢巻を締めて長刀を持った大変凛々しい姿は、憧れる人も多かったのでしょう。ちなみに、モデルは木曽義仲の妻で自ら長刀を手に戦った巴御前ともいわれています。
後ろの山には、彼女が退治した鬼の首を象徴して、赤熊(しゃぐま/髪のような被り物)が置かれています。

鈴鹿山の装飾品

鈴鹿山の懸物はインパクト大。前掛けは昭和63年(1988)に新調された「黄砂の道」という綴織ですが、なんと描かれているのはシルクロードの砂漠を歩く商隊のラクダです。また、見送りは昭和57年(1982)年に新調された京都の染色家・皆川月華の作品ですが、こちらは「ハワイの蘭花図染彩」。前はシルクロード、後ろは南国ハワイという組み合わせは大変ユニークです。

鈴なりの絵馬

鈴鹿山のもうひとつの特徴は、真松に大量に吊るされた絵馬です。絵馬には鳥居や松、宝珠といった縁起物の絵が描かれており、巡行の後、盗難よけのお守りとして配られます。これは鈴鹿山が盗賊の多い場所だったことに由来します。粽にも絵馬が添えられていますよ。

鷹山(たかやま)

応仁の乱以前から巡行していた由緒ある山鉾のひとつで、ご神体の人形が3体もある大変大きな曳山(車輪がついた鉾に似たタイプの山)でした。中納言・在原行平が光孝天皇の御幸で鷹狩りをする場面を表しています。昔の祇園祭を描いた屏風絵にもその姿を見ることができます。
江戸後期の文政9年(1826)に大雨で懸装品が損傷してしまったことに加え、蛤御門(禁門)の変」による火災で本体も焼失してしまい、以来、ご神体や残された懸装品などを飾る「居祭」で参加を続けてきました。
宵山(後祭:21~23日)の際はご神体などの展示が見られるほか、粽とお守り、おみくじなどが授与されます。(御朱印も有り)
近年、大船鉾の復活にも触発され鷹山でも復興の気運が高まり、2014年には囃子方が復活、その後唐櫃にて巡行に参加していましたが、2022年より復興した曳山と共に本格復帰します。

大船鉾(おおふねほこ)

船鉾とならぶ、もう一基の船形の鉾。後祭のしんがり(最後尾)に登場します。
神功皇后をご神体とし、新羅出兵時の様子を題材としていますが、船鉾が「出陣」の場面を表すのに対し、大船鉾は「凱旋」の場面を表します。
1864年の蛤(はまぐり)御門の変による大火で懸装品やご神体を残して鉾本体の木部が焼失してしまい、以降は巡行に出ない代わりに神功皇后のご神体や豪華な懸装品などを飾る「居祭り」を130年間続けてきました。
その後、一時は高齢化や人手不足で中止を挟むも、2006年から懸装品を展示する「飾り席」が地元の四条町内で復活。1997年には囃子方を復活させ、宵山の際には演奏披露も行ってきました。
2012年には唐櫃(からびつ/神輿のように担いで運ぶ箱)に懸想品やご神体につける神面を収める形で山鉾巡行に復帰。
2014年には鉾本体が完成し、山鉾巡行に本格復帰を果たしました。

舳先の飾りが2種類あり、大金幣と龍頭(2016年に復興)を毎年交互に使用しています。