安井金比羅宮とは
鳥居にも掲げられていますが、御利益は「縁切りと縁結び」。現在も人々の信仰は厚く、周辺の地域はもちろん全国からも毎日多くの人が参拝に訪れています。
本殿正面。左右には毎日のように新しい絵馬が数多く、上からかけられていきます。
安井金比羅宮の歴史
「大化の改新」で知られる天智天皇の時代(668-671)、彼と共に政治改革を行った藤原氏の祖・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が家と子孫の反映を願い、藤の木を植えて「藤寺」を建てたという言い伝えられており、これが起源とされています。その後小さなお堂だった藤寺は、奈良の大仏を建てたことで有名な聖武天皇により改築され、規模を拡大し「観勝寺(かんしょうじ)」と名を改めました。
現在も境内には藤寺の名残を示すように、立派な藤の木を見ることができます。
その藤をこよなく愛したのが、崇徳(すとく)天皇でした。観勝寺の藤をいたく気に入った崇徳天皇は、天皇の位を譲って上皇となった後の1146年、寺の一部を館に改築。寵愛していた妃の阿波内侍(あわのないし)をそちらに住まわせ、度々お通いになっていたといいます。
しかし崇徳上皇は朝廷内の実権を巡り争った1156年の保元の乱で敗北。権力を失い、讃岐国(さぬきのくに/現在の香川県)に流罪となってしまいます。その後彼は何度も京都へ戻りたいと願い出ましたが受け入れられず、失意の中で8年後、二度と都の土を踏むことなく亡くなったのでした。安井金比羅宮の主祭神は、この崇徳上皇なのです。
崇徳上皇が亡くなった後、都では飢饉などの災害や有力者が立て続けに亡くなるなど不幸が相次いだため、無念のうちに亡くなった彼の祟りではないかと人々は恐れるようになります。彼が不幸な最期を迎えたことに後ろめたさを感じていた者も多かったためでしょう。人々はその御霊を鎮めようと神社を建て、崇徳上皇を祀りました。
一般に、「金刀比羅宮」「金比羅宮」と呼ばれるのはこの崇徳上皇を祀る神社を指します。
上皇が亡くなった讃岐の地には金刀比羅宮の総本社があり、京都にも彼を祀る神社が、現在サッカーの神様としても知られる白峯神宮をはじめ、幾つか存在しています。
安井金比羅宮はというと、崇徳上皇が亡くなった後、残された妃の阿波内侍が、亡くなった上皇を弔おうと二人の思い出の地である観勝寺の中にお堂を建て、以前崇徳上皇に贈られた直筆の御尊影(肖像画)と御遺髪をひっそりお祀りしました。
これが後に後白河法皇の詔命により神殿が創建され、正式に崇徳上皇を祀る神社として手厚く整備されました。
その後応仁の乱のために観勝寺は荒廃してしまいますが、江戸時代になって、太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院というお寺が、現在祇園歌舞練場のある場所に移されることになり、新たに「光妙院観勝寺」として整備されました。その折に、鎮守社として崇徳上皇を祀る金比羅宮が改めて現在の場所に創られました。このころから、「安井金比羅宮」の名前で人々から呼ばれるようになっていたといいます。
その後明治に入り、「神仏分離」の政府の方策のために、お寺は廃されてご本尊は嵯峨の大覚寺へ移されてしまいました。結果、鎮守社の安井金比羅宮だけがその場に残されることになり、現在に到ります。
良い意味での「縁切り」と「縁結び」
安井金比羅宮の御利益は、「縁切り」と「縁結び」。
「縁切り」は、主祭神である崇徳上皇が、讃岐(香川県)に流された際に、人の世への一切の未練を断ち切り、現在もある金刀比羅宮の中にこもったということに由来しています。
後に書かれた『保元物語』によれば、いくら願い出ても京都に戻ることを許されず、戦で亡くなった人々を弔おうと写経を収めようとしても突っぱねられるなど、崇徳上皇は不幸の連続に打ちのめされます。そしてとうとう絶望のあまり、「ならば人をやめて魔界の王になってやる!」と告げ、建物に引きこもってしまいます。そしてその後上皇は身なりを全く気にしなくなり、痩せ細り、髪も爪も伸ばし放題、とまさに「人ではない」姿になってしまったとか。
人をやめる、と言い切った崇徳上皇。言い換えれば、人の世への未練を断ってしまったともいえるでしょう。このことから、崇徳上皇を祀る神社は「何かへの未練を断つ」、断ち物の祈願所として人々に信仰されるようになりました。
しかしここでいう「縁切り」とは、決してネガティブな意味ではありません。心を惑わす悪いものとの縁を断ち切って、すっきりとした状態にする、身を清めるという意味での「縁切り」なのです。
また、安井金比羅宮は他の崇徳上皇を祀る神社とは違い、妃の阿波内侍と過ごされた思い出の地でもあります。二人は戦によって引き裂かれて悲恋に終わってしまいましたが、自らと同じように良縁の人が引き裂かれてしまうことのないように上皇が護って下さる、という意味から、邪魔をする悪縁を絶って良い縁を保つという「縁結び」の御利益があるのだそうです。
なので、良縁に結ばれたご夫婦やカップルでお参りしても、縁が切れるわけではないのでご安心を。
江戸時代には既に名所図会のなかに描かれるなど人々によく知られる存在であったようですが、現在も人々の信仰は篤く、毎日のようにたくさんの人がお参りに訪れています。
特に、境内で目に付くのが「縁切り縁結び石」。真ん中に人一人が入れるサイズの穴が開けられており、これを表裏両方から潜り、願いを書いた札を石に貼り付けます。すると悪い縁が祓われて良縁が結ばれるのだとか。最近では恋愛に関する神様として雑誌に取り上げられるなど全国に知られるようになったそうで、女性や若者が参拝している姿もよく見かけます。
<つづく>
境内にある「藤寺」の碑と、藤の木。流石に崇徳上皇が楽しまれた頃のものではありませんが、とても立派な大きさです。取材時は冬場だったのでこの状態でしたが、春から初夏にかけては紫の美しい花が楽しめるとのこと。5月頃が見ごろです。
絵馬堂の向こうに本殿があります。左手奥には集会場などとして貸し出しをしている会館があり、地域の人たちの茶道教室や日舞の教室などとして使われています。神社が人々の憩いの場だった、昔ながらの姿が息づいています。
噺家(落語家)さんたちも神社に訪れています。特に桂米朝一門は60年以上前から、勉強会を定期的に神社を会場に開催しているそう。一般の方も聴ける落語会も開催されています。
この絵馬は昭和41年に勉強会の20周年記念で奉納されたもの。下の段に「べかこ」という名前が見えますが、これ、現在の桂南光師匠です。
境内で特に目をひくのがこの「縁切り縁結び石」。びっしりと願い事を書かれたお札が石を覆い尽くしています。お願い事をするときは、お札を貼りつけ、中央の丸い穴を一往復潜ります。すると、悪い縁が切れてよい縁が結ばれる、とのこと。取材時も沢山の人が挑戦していました。