醍醐寺とは
醍醐寺の入口にあたる「西大門(仁王門)」。
皇室に愛された霊山
それまでも、醍醐寺のある笠取山(醍醐山)は山岳信仰の対象、神の宿る霊山として信仰されている場所でした。
弘法大師・空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝(しょうぼう)という人がその山に登った際、不思議な白髪の老人に出会います。それはこの地の神様・横尾明神でした。聖宝は横尾明神から湧き水の出るこの山を譲り受け、頂上に小さなお堂を建てて准胝観音(じゅんていかんのん)と如意輪観音の二体の仏像を祀り、その付近を「醍醐山」と名づけました。これが、醍醐寺の始まりといわれています。
醍醐寺は山深くの一帯(上醍醐)を中心に、真言密教の霊場として発展します。その後、醍醐天皇をはじめ、朱雀天皇、村上天皇の三人の帝から厚く信仰され、手厚く庇護されました。
特に醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺に定め、延喜7年(907)には御願により山上に薬師堂を建立。その後も五大堂が建てられて上醍醐の伽藍が完成しました。それに引き続き、山の麓にも釈迦堂(延長4年/926)、五重塔(天暦5年/951)と建物が次々に建立され、広大な平地に大伽藍(下醍醐)が出来上がりました。現在も、醍醐寺は主に山頂付近の上醍醐とふもとの下醍醐、この二つのエリアで成り立っています。
その後も醍醐寺は皇室をはじめ、貴族や武士などに支援され、様々なお堂や諸院が建てられ、真言宗の中心的寺院として発展していきました。永久3年(1115)には三宝院が建てられ、醍醐寺の基礎部分はほぼ完成します。
鎌倉時代の頃には醍醐寺の歴史を記した「醍醐寺雑事記」が編纂され、また多数の仏画や仏像研究用の図像なども描かれました。皇室が二派に分かれて対立していた南北朝時代になると、醍醐寺の内部でもその影響で対立が起きましたが、当時の緊張した様子を示す歴史資料も残されています。このように、学術の発展や歴史の流れの上でも、醍醐寺はとても重要な存在となっていたのです。
しかし、隆盛する醍醐寺も、長い年月の中で何度も火災や荒廃の憂き目を見ます。応仁の乱など相次ぐ戦のために下醍醐は荒廃し、五重塔以外の建物は皆焼失してしまいます。それに伴い、山上の上醍醐もすっかり荒れ果ててしまったのでした。
暫くその状態が続いていたのですが、そこで醍醐寺を救ったのが豊臣秀吉でした。
理源大師像(木造) 鎌倉時代(重文)
開山堂にある、開祖・聖宝理源大師の木造。当初のものは一度焼失したため、こちらは鎌倉時代に新たに造られたもの。
醍醐寺を救い、守ったもの
醍醐寺を救った「醍醐の花見」
秀吉は最晩年にあたる慶長3年(1598)の春、醍醐寺で花見の宴を開きました。世に言う「醍醐の花見」です。秀吉は正室(北政所)や側室、嫡子の秀頼といった家族をはじめ、配下の武将やその家族まで、1000人以上も客を招いて豪華な花見を行ったのです。
醍醐寺は鎌倉のころから花の寺として知られている有名な名所でしたし、秀吉自身もそれ以前に訪れたこともあったそうですから、恐らくその際に「ここで花見をやるぞ!」と決めて意気込んでいたのかもしれません。
天下人主催の花見にあたって、会場を荒れたままにしておくわけにはいきません。そこで秀吉は、早いうちから奉行の前田玄以を責任者に任命し、荒廃した醍醐寺の整備を命じます。また、自らも下見に足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修、建物の再建などを指揮。そして、醍醐寺の山と伽藍全体に、700本もの桜を植えさせたのでした。
花見の当日は、前日までの悪天候が嘘のような、絶好の花見日和だったといいます。たくさんの人々が、敷地を埋め尽くした美しい桜を眺めながら楽しいひとときを過ごしたことでしょう。(この時に使われた桜見物用の建物「純浄観」が、三宝院の中に残されています)
この「醍醐の花見」をきっかけに、醍醐寺は紀州(和歌山)などからお堂が移築されたり、金堂や三宝院など失われていた建物が再建されたりと、今日私たちが見るような姿に復興していきました。いわば、秀吉は醍醐寺にとっては恩人にあたるのです。
現在も、三宝院の唐門扉には豊臣家家紋・五七桐が刻まれているのを見ることができます。
また、4月の第二日曜日には「醍醐の花見」にちなんだ「豊太閤花見行列」が境内で開催され、当時の盛大な宴の様子が今に伝えられています。
江戸時代に入ると、醍醐寺の座主が暮らす場所である三宝院が、江戸幕府によって修験道の本山と明確に位置づけられます。これにより山への信仰も高まり、また、江戸時代には旅行も兼ねて修験道の修行場を巡る人々も多くいたことも有って、参拝客も増加。醍醐寺は再び活気を取り戻していきました。
醍醐寺を守った僧侶達
その後、明治維新の際には「神仏分離令」「廃仏毀釈」「修験道廃止令」など、多くの寺院に同じく、醍醐寺も大きな打撃を受けます。多くの子院が失われ、主だった伽藍と中心的な子院・塔頭だけが残りました。しかし、他の多くの寺院が寺宝を売り払うなどして流出させてしまったのに対し、醍醐寺は座主をはじめとした多くの僧の努力もあり、一つの寺宝も外に漏らすことなく、守り抜いたのです。長い歴史の中で伝えられてきたこの貴重な寺宝は、大半が国宝や重要文化財に指定され、現在も霊宝館(宝物館)に大切に所蔵されています。そして、平成6年(1994)には、ユネスコの「世界文化遺産」に登録を受けました。
三宝院の唐門。2010年7月に復元され、秀吉が修復させたころの姿を取り戻しました。黒漆に金箔張りで、天皇家の菊御紋と豊臣の五七桐紋があしらわれています。
醍醐寺の霊宝館。10万点以上の寺宝は、春・秋の特別展開催に合わせて随時公開されています。霊宝館中庭には幅30m近くもある大きな枝垂桜があり、春には華やかな姿を見ることが出来ます。現在醍醐寺境内にある桜の中でも一番古参かもしれない、とのこと。