醍醐寺の宝物たち(境内の建物編)
数多くの国宝・重文クラスの文化財を有する醍醐寺ですが、境内に点在する建築物もその一端を占める貴重な存在となっています。
特に、鎌倉・平安時代の建築物がほとんど残存していない京都のなかで、平安時代そのままの形を留めている五重塔などは、その価値は計り知れないものがあります。
ここでは、主に上醍醐・下醍醐各エリアの代表的な建築物をピックアップしてご紹介します。
西大門(仁王門)は慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建されたもの。
醍醐寺の始まりの地・上醍醐
険しい山間に、平安時代から残る薬師堂(国宝)のほか、鎮守神である清瀧権現拝殿(国宝)、清水の舞台を思わせる桃山時代の舞台建築を残す如意輪堂、「五大力さん」の祭で知られる五大堂などの建物が立ち並んでいます。また、醍醐寺の名前の由来となった「醍醐水」も、現在も変わらず湧き続けています。
薬師堂(国宝)
醍醐寺に特に深く帰依した、醍醐天皇縁のお堂。
醍醐天皇の勅願により、延喜7年(907)頃に、開山である聖宝によって創建されました。現在のお堂は保安2年(1121)、一度焼失した後、平安時代に再建されたものです。京都は応仁の乱(1467)で街の多くの建物が焼失しているため、鎌倉以前の時代の建物は殆ど残っていません。また、上醍醐は何度も、それも最近まで火災に見舞われたことがあるのですが、幸いにも薬師堂はそれも掻い潜り、現在まで平安時代の建築物としての姿を留めています。
本尊である薬師三尊像も平安時代のもの。他にも幾つもの貴重な仏像が安置されていましたが、全て現在は下醍醐にある霊宝館(宝物館)に移されています。
醍醐水
聖宝が醍醐寺を開く際に、お告げで発見したという霊泉。修験道の行者でもあった聖宝が小さなお堂を建てて新たな活動の拠点としました。醍醐寺の始まりとなった、まさに「発祥の地」です。現在も水はこんこんと湧き出しており、参拝者も飲むことが出来ます。(もちろん自然の湧き水ですから、取りすぎ厳禁!)水質は超軟水。お茶や珈琲を入れるのにも適しているとか。
因みに「醍醐寺」の名前は、聖宝がこの山に登った際に出会った山の神様・横尾明神がこの湧き水を「醍醐味なるかな」と誉めていたことが由来になっているそうです。
現在はペットボトル入りの水も下醍醐の境内で販売されているので、山に登らなくても入手は可能です。醍醐寺のホームページで通販も行われています。
※ 西国三十三札所である准胝堂は、2008年の落雷によって焼失してしまっています。そのため、参拝者向けのご朱印は女人堂(成身院)で受付されています。
醍醐寺薬師堂(国宝)
下醍醐の五重塔と並び、京都に残る貴重な平安時代の建築です。上醍醐は雷などで周辺の建物が火災にあうなど何度か被害を受けていますが、幸いなことに薬師堂は現在も昔からの姿を見ることが出来ます。本尊は下醍醐の霊宝館に移されているのでそちらでご拝観を。
これぞ大寺院・絢爛豪華な下醍醐
また、数多くの貴重な寺宝を収めている霊宝館(宝物殿)も、この下醍醐にあります。
金堂(国宝)
醍醐寺の本尊・薬師如来を安置している、お寺の中心部にあたる建物。
最初は上醍醐の薬師堂と同じく、醍醐天皇の勅願で延長4年に建立されたもの(当時は釈迦堂と呼ばれていたそう)でしたが、その後二度の火災で焼失してしまっていました。
現在の建物は、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して紀州から移築させたもの。元は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)にあった平安後期に後白河法皇が建てさせた満願寺というお寺の本堂だったそうです。ただし、実際に移築が完了したのは秀吉がなくなって2年後の慶長5年(1600)。秀吉自身はこの建物が出来上がった光景は、目にすることはありませんでした。
五重塔(国宝)
天暦5年(951)建立の、京都で最も古い木造の建物。こちらも上醍醐の薬師堂と並び、京都における数少ない貴重な平安時代の建築物です。下醍醐は度重なる火災で周辺の建物は大半が焼け落ち荒廃してしまったこともありましたが、その中でも五重塔は、唯一建てられた当時の姿をそのまま残しています。
元は醍醐寺に深く帰依した醍醐天皇の冥福を祈るために建てられたものでしたが、計画から完成まで20年もの歳月を要したといいます。
創建以来、何度も修理をされて今日にいたっていますが、特に桃山時代・天正13年(1585 )の地震で大きな被害を受けたそうです。その際に修理を援助したのは豊臣秀吉でした。
高さは総高38mありますが、頂上の相輪(金属のリングがついた飾り)が全体の3割以上も占めています。他の寺院の塔に比べて上の階ほど屋根が小さくなっていないため、全体的に少し「ゴツめ」の安定感のある形である点も特徴です。
また、建物だけでなく内部も凄いのがこの五重塔。内部には平安時代に描かれた両界曼荼羅図などの壁画がそのまま現存しています(普段は非公開)。そのため、塔とは別に絵画単体で国宝になっています。
三宝院
醍醐寺に入ってすぐ手前、菊紋と五七桐紋の唐門が目印の建物。
この三宝院は、醍醐寺の座主(最も高位の僧)が暮らす「本坊」にあたります。創建は永久3年(1115)、第14代の座主・勝覚僧正により創建されました。名前は創設した勝覚僧正が定賢、義範、範俊が受け継いでいた三系統の教えを全て受け継いだところから名づけられたものです。室町幕府とも関係が深い僧が多く出たこともあり、醍醐寺の中心的な塔頭となっていました。
しかし応仁の乱で当初の建物は焼け落ちてしまっています。現在の建物は、醍醐寺の復興に尽力し、「醍醐の花見」の準備にも携わった義演僧正が住んでいた金剛輪院を後に「三宝院」の名に改めたものです。
建物の大半は重文となっており、特に庭園に隣接する表書院は、桃山時代を代表する建物として国宝に指定されています。この表書院は「書院」と名がついているものの、建物と建物を橋のような細い廊下でつなぎ、建物から突き出た泉殿が備えてあるなど、平安時代の「寝殿造」の様式が取り入れられているところがユニークな建物となっています。また、内部の障壁画には近年話題になった長谷川等伯一派の作と言われる作品もあります。
また、三宝院といえば庭園が有名。この庭は、「醍醐の花見」に際して、豊臣秀吉が自ら基本の設計をしたもの!秀吉自身は造営途中の段階で亡くなったため完成を見ることはありませんでしたが、義演がそれを引き継ぎ、完成させました。庭のすぐ横には醍醐の花見の際に秀吉が作った建物といわれる「純浄観」も移設されています。花見の頃に立ち寄れば、かつて天下人が思い描いたもの景色を、楽しめるかもしれません。
<つづく/次回は霊宝館についてご紹介します>
五重塔(国宝)
醍醐寺に縁の深い醍醐天皇の菩提を弔うために、皇太后の隠子が承平元年(931)に発願。第一皇子の朱雀天皇が936年に着工、その後を継いだ第二皇子の村上天皇の代・951年に完成しました。内部の壁画はその後ぼ日本密教絵画の源流になったともいわれています。
秋の三宝院庭園。桃山時代の華やかな雰囲気を残す庭園として、国の特別史跡・特別名勝にも指定されています。
桜が有名な醍醐寺ですが、秋の紅葉も大変見事です。残念ながら三宝院庭園は撮影禁止ですので、訪れた際はご注意を。