醍醐寺霊宝館
醍醐寺霊宝館は、昭和5年(1930)の醍醐天皇千百年御遠忌(醍醐天皇の没後千百年の年)から建設計画が始まり、昭和10年(1935)に最初の施設が開館、一般に公開されました。私設の展示施設としてはかなり早い時期の開館であり、当時最高の設備が備えられていました。
実は醍醐寺では、霊宝館の開館以前から所蔵する品々の調査・研究が行われていました。
特に、数多く収められている古文書類(総合して「醍醐寺文書」と呼ばれる)においては、明治時代からその研究が始められ、目録の作成作業が行われていたといいます。
近代は仏教の排斥運動(廃仏毀釈)など寺院存続の危機にも見舞われる中、文化財や古文書などが散逸しないように守り抜いた、醍醐寺の姿勢がここにも伺い知れます。
その後所蔵品の増加にも伴い、昭和54年(1979)には新たな収蔵庫3棟が新築されました。しかしその後も所蔵品は増え続け、手狭になってきたということもあり、平成13年(2001)に新たな建物が増改築されました。
現在の霊宝館は、以前からの展示施設(昭和9年築)をリニューアルした本館と、新たに増築された平成館の二つの建物で構成されており、建物は廊下でつなげられています。
平成館には休憩スペースもあり、醍醐寺の中でも特に古いと言われる、見事な枝垂桜を見ることが出来ます。
入口の白い建物は本館。形は伝統的な建築を模していますが、鉄筋製です。
本館展示室の内部。元は畳敷きだったものを、リニューアルの際にフローリングに変更したそうです。
山から下りたご本尊―国宝「薬師如来坐像」と大展示室
元々、薬師三尊像は、上醍醐にある薬師堂のご本尊として安置されていたものでした。
しかし醍醐寺の境内でも山上にある上醍醐は、道が非常に狭く、消防車が入ることができません。そのため、万一火災が発生した場合消火作業も仏像を運び出すことも難しい状況にありました。実際に同じ上醍醐内では落雷によって焼失してしまった建物もあるため、火災から薬師三尊像を守る対策は急務となっていました。
そして協議を重ねた結果、「仏像を山から下ろし、防火設備の整った霊宝館の中に移動する」ということになったのです。
車も入れない山の上から仏像を運び出すには、やはり人力に頼るしかありません。2000年に行われた作業の際は、薬師如来像一体を運び出すのに、約20人のスタッフで丸一日もかかったのだそうです。
上醍醐の中心的な存在でもある薬師三尊像を本来の居場所から下ろす―
そのことにはやはり異論も根強くあったそうです。案内をしてくださった文化財管理室長の長瀬福男さんは「仏像は信仰の対象であるが、同時に日本の誇る大切な文化財であり、それを損なわないように、と皆が納得するまで、とても長い時間を要したんです」と仰っていました。
寺院にある仏像は貴重な文化財です。しかしそれと同時に、人々が拝み・信仰する対象でもあるのです。寺院から展覧会などに仏像を貸し出しする場合も、必ず仏像から魂を抜くための儀式を行ってから運び出されています。ただの「作品」とだけでは片付けられない意味を持った存在であること、寺院ならではの文化財の扱いの難しさがあることを、改めて考えさせられます。
大展示室は天井が高く感じられ、まるで展示室ではなくお寺の本堂にでも入ったような感覚が味わえます。
特に内陣は、薬師三尊像の本来の住まいである薬師堂と、ちょうど同じ大きさになるように設計されているそうです。仏像の配置も薬師堂にあったときと同じです。仏像の前には、法会を行うためのスペースも確保されており、行事の際はここに実際に僧侶の方が入られて、お勤めが行われます。
国宝「薬師如来坐像」及び両脇侍(日光菩薩・月光菩薩)像
「薬師三尊像」とも。いずれも木造(カヤ材とみられる木の一木造)で平安時代の作。薬師如来は上醍醐・薬師堂のご本尊。
醍醐天皇の発願で、醍醐寺の開山である聖宝が、薬師堂と併せて造営を開始。しかし聖宝が途中で亡くなったため、後は弟子が引き継ぎ、延喜13年(913)に完成しました。薬師堂は創建当初のものではありませんが、この仏像は平安時代に造られた当時の姿を今に伝えています。「醍醐寺の歴史の生き証人」ともいえるかもしれません。
薬師如来坐像は頭が若干大きめで、少しいかつい表情をしていますが、その分堂々とした力強い雰囲気があります。この重厚感たっぷりの造形は、平安前期の仏像の特徴だそうです。
薬師如来坐像の左右には日光・月光菩薩像が控えています。丁寧に胸飾や衣服のしわが刻まれ、薬師如来坐像とは逆に、全体として華奢で優美な印象を抱かせます。
作者は聖宝の弟子の会理僧都(えりそうず)と伝えられています。聖宝の下には多くの仏師がおり、ひとつの「仏像工房」として活動していたのだそうです。
平成館内部。奥に見えるのが内陣です。必要な場合は仕切りで大展示室と分けてしまうこともできるそう。
ちなみに平成館は500年持つという耐久コンクリート製!防火設備も完璧です。
大展示室だけでも部屋は800㎡もの広さ。壁は展示ケースになっています。この時は醍醐寺所蔵の仏像が大小ずらり!と並んでいました。
内陣の内部。薬師三尊像と、閻魔天騎牛像・帝釈天騎象像が並んでいます。部屋の幅や高さは元々あった上醍醐の薬師堂と同じサイズ。
国宝「薬師如来坐像」。
病気を治してくれると信じられ、病気の箇所や痛いところと同じ場所に金箔を貼るという習慣があったため、「箔薬師」とも呼ばれているとか。
また平安時代、国境の山上にある寺院には薬師如来像をおく風習があったそうで、実際に醍醐寺の山(笠取山)も山城国(京都側)・近江国(滋賀側)の境に位置していました。この仏様には国を災いから守る役割もあったのです。
醍醐寺の主な宝物たちピックアップ
重要文化財「宗版一切経」(中国・北宋時代)
12世紀に、俊乗房重源(1121~1206)という人が中国・北宋より持ち帰り、醍醐寺に納めた経典。重源は大仏で有名な奈良の東大寺の再建で中心的な役割をした人ですが、実は醍醐寺とも縁の深い人物でもあります。
「一切経」とは当時に知られている全ての経典を集め、まとめたものです。仏教が盛んになり、僧侶が増えたり一般の多くの人に広く信仰されたりするようになると、仏教を学ぶために様々な経典、印刷された一切経のテキストが必要となりました。そのため、平安~鎌倉時代にかけて、様々な僧が一切経の印刷が多く行われていた中国(当時は宋)に渡り、経典を持ち帰ってきました。
醍醐寺に収められたものはそのうちのひとつです。
全国の他の寺院にも幾つか「宗版一切経」は残されていますが、醍醐寺のものは保存状態が非常に良く、800年以上前のものとは思えないほど。今でも印刷された文字も掠れずに残っていて、はっきり読むことができます。そして何より、ほぼ全巻(全部で6096帖)が揃っているという点で、仏教研究の上で大変貴重な資料となっています。
また、経典を収めておく経函(きょうばこ)も持ち帰られた当時のものというところも、驚くべきところ。現在でも鮮やかな表面の色合いが今も保たれています。宋から持ち帰られた経典がどれだけ大切に守られてきたのかが、伝わってくるようです。
「五大尊像」(鎌倉時代前期・12世紀ごろ)
五大尊とは、「五大明王」ともいい、東西南北と中央に配される不動明王のことをいいます。真言宗では災いから国を守る「鎮護国家」の上でも特に大切な存在とされています。
醍醐寺の仏画は主に鎌倉時代(12世紀)のもの。しかし,、色や細かな切金文様(薄い金箔・銀箔を細く切り、絵に貼り付けて文様を描く技法)、箔押しの部分などはきちんと残っており、そこまで古いものとは感じさせません。
太くて力強い線、活き活きとした炎の動きは、武士の世となっていく鎌倉時代の造型感覚を伺わせます。
重要文化財「千手観音立像」(平安時代)
「千の手で全ての人々を救う」とされた千手観音は、平安時代のころから多くの人々に信仰されるようになった仏様です。
この千手観音立像は「薬師三尊像」と同じく元は上醍醐にあった仏像で、醍醐寺ができてまもない天徳年間(957~961)に安置されたと伝えられているそうです。
少しふっくらとした体つきや優しい顔立ちは、見る人を穏やかな心にさせてくれるようです。
実は横から見ると少々前のめり気味に立っており、そのため顔が若干伏し目がちに見えるのもポイント。展示室に展示されている際、仏像の横や後ろなど、お堂で安置されている状態では見られない角度からも鑑賞できる面白さがありますが、それが良く分かる作品です。
「金天目・金天目台」(桃山時代・16世紀)
醍醐寺の座主・義演が太閤・豊臣秀吉の病の治癒を願って加持祈祷を行った際に、その褒美として贈られたもの。同じ大きさの天目茶碗二つと、茶碗を置くための天目台一基が伝えられています。醍醐寺の建物の再建・補修などに貢献した、いわば「恩人」のような存在である秀吉と、「醍醐の花見」にも大きな役割を果たした義演の、繋がりを感じさせます。醍醐寺にはこのような、歴史の一コマを感じさせるような宝物もあります。
鮮やかな黄金に輝く茶碗ですが、全て金で出来ているというわけではありません。茶碗は実は木製です。木の碗を芯にして、その上から薄く延ばした金の板二枚で内側・外側から包んだつくりになっているとのこと。ちょうど、口をつける縁の部分で金の板がつなげられているそうです。よく見ると焼物のように上からかけられた釉薬が垂れる様子や、釉薬がかかっていない部分なども再現されていて、ちょっとした遊び心も感じられます。台は銅に金メッキをしたもの。
俵屋宗達「舞楽図」(江戸時代・17世紀)
ご案内をしてくださった長瀬室長のお勧め作品が、この「舞楽図」。琳派の代表者として知られる俵屋宗達の筆による屏風です。描かれている舞人たちは、右隻が「採桑老」「納曽利」、左隻が「羅陵王」「還白楽」「崑崙八仙」の五種類の舞を舞っています。鮮やかな色合いや活き活きとした動きも楽しい作品です。
背景はとてもシンプル。金箔地の隅に建物の屋根・太鼓、松と桜の根元が見えるだけです。とても単純な構図ですが、描かれた人物がとても映えています。また、宗達といえば、計算しつくされたモチーフの配置もポイント。人物も背景もこれ以上は絶対に動かせない、動かすと絵が崩れてしまう絶妙なバランスでデザインされています。
宗達のセンスがぎゅっとつまった、金碧障壁画の代表作です。
ここでご紹介した宝物はほんの一部です。
霊宝館では春・秋の二回、展覧会が開催されており、所蔵する宝物を少しずつ入れ替えて公開されています。
苦しい中でも、人々の努力によって守り伝えられてきた、貴重な宝物の数々。
花見や紅葉狩りも良いですが、この「宝の宝庫」に会いに足を運んでみてはいかがでしょうか。
なお、この記事の取材に関しましては、醍醐寺・文化財管理室長の長瀬様に、ご案内・ご協力を頂きました。この場を借りて、厚く御礼を申し上げます。
「宗版一切経」(重文)の展示風景。ずらりと並んだ箱に経典が収められています。この展示の際は400箱ほど出されていたそうですが、これもほんの一部。
「五大尊像」のうちのひとつ、「大威徳明王」像。五大尊(五大明王)は、不動明王を中心とする五人の明王で、平安時代から日本では盛んに信仰されました。密教のシンボル的な存在の仏様でもあります。力強く躍動感のある画風は、武士の世となる鎌倉時代らしい傾向だとか。
重文「千手観音立像」。薬師如来坐像と並ぶ、醍醐寺では特に古参の仏様です。
「金天目・金天目台」。豊臣秀吉の愛用品と伝えられています。黄金の茶室を作ったといわれる秀吉らしい品ともいえます。釉薬の雰囲気やむき出しの土のざらざら感も、しっかり表されています。
俵屋宗達「舞楽図屏風」。元は三法院に伝わっていたものです。醍醐寺にはこれの他にも宗達の作品が幾つか伝えられています。
屏風を左右に並べると、その絶妙なバランス感覚がよくわかります。
→ 拡大図