大将軍八神社とは
方位を司る神様として、平安京―京都が生まれたそのときから千年以上、京を守り続けてきました。
また、陰陽道とも強い関わりを持ち、方徳殿(宝物館)には他ではお目にかかれない、「大将軍神像」や「古天文暦関係資料」が数多く収められています。
本殿。大将軍を祀る神社は江戸時代には村にひとつはあるといったくらい沢山あったようですが、今はほとんど残されていません。大将軍八神社はその中でも最も大きい大将軍社といわれています。
大将軍八神社の歴史
大将軍は北西の方角を守護する神様。よく「鬼門」の北東の方角は知られていますが、古来より北西は「天門」と呼ばれ、「鬼門」と同様に大変重要視された方角でした。
というのも、怨霊や魑魅魍魎、災いの類は「天門」から入ってくると信じられていたためです。
他の京都にある神社の多くは、歴史の変遷に従い、創建当初とは別の場所に移された例が多々あります。しかし、大将軍八神社の場合は神社の位置そのものが大切であったために、その場所を遷されることはなかったのでしょう。
実際、文献資料にも「仁和寺を経て並岡を 東へ一條の末を大将軍の鳥居 の前へかけいでて…」(『明徳記』※)と記されているほか、神社に残されている江戸時代の絵図にも、現在同様一条通と天神筋の交わる辺りに、大将軍八神社が描かれています。
明徳記:室町時代の明徳二年(1391)に山名氏が室町幕府に対して起した「明徳の乱」を描いた軍記物の書物。作者は不明だが、戦乱の直後に書かれたものと言われている。
貴族や権力者も左右した「大将軍」
大将軍は、元は古代中国の道教信仰から生まれた神様です。他の中国文化などとともに、日本に伝えられました。
大将軍(中国の古天文学では「天大将軍」と呼ばれた)がいる方位を犯すと、厳しい咎めや災いを受けるといわれたため、古くから非常に恐れられる存在となっていました。
この信仰の起こりは既に奈良時代にあり、平安中期~鎌倉初期にかけて盛んになりました。
特に建築や修理、移動、転居、旅立ちなどは、方位に気が使われる事柄で、そのため天皇家や貴族達は、何かを始める際にはまず天文学の専門家である陰陽師に頼み、そこが大将軍のいる方位にあたらないかどうかを調べてもらっていたのです。
また、大将軍は時として、権力者の行動も左右し、歴史にも影響をあたえています。
例えば、白河天皇が法成寺というお寺の塔の供養に出席しようとしたところ、お寺がちょうど大将軍がいる方位に当たることがわかったため行幸を取りやめてしまいました。
鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝も、養和元年(1181)、京都の平家を攻め立てようとした際、大将軍の方位が西にあたったため、京都攻めを遠慮したのだとか。
これほどまでに恐れられた大将軍。そんな神様が都の守護神として祀られたのは、その恐ろしさを逆手に取って、災いを追い払ってもらおうという意味があったのでしょう。
現在もその信仰は篤く、大将軍は一定の方角に三年間留まるということから「大将軍様の三年塞がり」とされ、その間は大将軍が留まる方向の工事は避ける、といったことがあります。
<つづく>
一条通側から大将軍八神社を臨む。周辺は賑やかな商店街ですが、一歩足を踏み入れるととても静かな空間が広がります。建物は時代を経て建て替えられているものの、場所は初めて神社が建てられてからずっと変わっていません。
本殿の前に設けられたモニュメント。
星の台座になっている八角形の石には「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」の八文字が刻まれています。これは中国の占い「易」や風水などで用いられる「八卦(はっけ)」で、これも方位の意味をもちます。「あらゆる方向」のことを「八方」とよく言いますが、それもここから来た言葉。神社ではこの八角形の図柄をモチーフにした風水お守りも授与されています。
本殿の扁額。
大将軍八神社の「八」は、合祀された神様に由来します。はじめは大将軍のみだったのが、後に大将軍をはじめとした暦に関わる八柱の神様(暦神八神)も合祀されるようになり「八」の字が名前に加えられます。また、江戸時代にスサノヲノミコトと八柱の子供たち(御子八神)が習合し、桓武天皇も共に合わせて祀られ、今の形となっています。
本殿の裏にはなんと船の碇(いかり)が!
碇は縁起物とされ、厄除けなどの願いを込めて神社に収められることがあったといいます。