大将軍神社 方徳殿(宝物庫)
方徳殿の一階では大将軍八神社を代表する宝物である「立体星曼荼羅」を、二階では神社の歴史・陰陽道や天文学に関する貴重な古資料を見ることができます。
本殿右奥に見える大きな建物が方徳殿です。
80体の神像が描く宇宙。「立体星曼荼羅」
これは密教や陰陽道の宇宙観をあらわす「星曼荼羅」の世界を、星を司る神像を並べて立体的に表現した「立体星曼荼羅」。約80体ある神像は昭和50年(1972)に国の重要文化財に指定されています。
(平面に描かれた星曼荼羅図(大阪・久米田寺所蔵品の模写)も入口に展示されています)
神像の視線は部屋の中央に集まるような配置になっているのですが、中央部に立ってみると、まるで自分がじっと神々に見つめられているような感覚に圧倒されてしまいます。
神像はどれも木製で、ヒノキやケヤキ、黒檀など材料は様々。
よく目を凝らして見ると着物の文様や色が残っており、かつては彩色されていたことがわかります。神像がつくられた当初は恐らく、どれも薄暗い室内でも映えるような鮮やかな色で彩られていたのでしょう。
神像が作られたのは大将軍への信仰が最も盛んであった平安時代の中期~鎌倉時代(10世紀末~12世紀)のころ。
神像によっては腕や持ち物など一部が失われてしまっているものも見受けられます。しかし、神様の像自体、仏像に比べてあまり数は作られていません。その点、これだけの数の神像が一箇所にまとまって伝わっている例は日本でも他になく、大変珍しく貴重なものです。
ずらっと並んだ神像!配置の効果も相まって、とても荘厳な雰囲気になっています。かつての「大将軍堂」での像の配置が再現されているそう。
「立体星曼荼羅」の部屋の前には、関係資料が展示されています。左に見えるのが平面に描かれた「星曼荼羅」。
予めここを見ておくと、立体となっても配置や神像の意味も分かりやすいですよ。
星と神像の密な関係
星と神像の関係-北辰信仰
神像は全て男性の姿で、おおまかに三種類に分けられます。
最も数が多いのが憤怒の表情で武器や鎧兜を身に着けた武人の姿をした武装像で50体。次いで冠を被った平安貴族風の束帯像が29体、そして子供の姿をした童子像1体があります。
束帯像は「星曼荼羅」に描かれている北斗七星を示す神様と同じ姿をしていることから、北斗七星を意味していると考えられています。
また、武装像は立ち姿のものと胡坐(あぐら)をかいて座った姿のもの、片足を上げた姿勢の半跏像がありますが、特に半跏像は、北極星の化身とされる武装妙見(妙見菩薩)の姿を全く同じものとなっています。
この北極星や北斗七星を神様として崇める信仰は、「北辰信仰」と呼ばれます(北辰は北極星の別名)。
これは中国の道教からきたもの。道教では北極星は一点から動かず他の星座の動きの中心となっていることから「運命を司る星」として北斗七星と共に神格化され、崇められました。これが日本の陰陽道でも取り入られ、その後仏教にも習合され、「妙見信仰」の形に変わっていきました。
そして大将軍神もこの北辰信仰(妙見信仰)と結びつき、北極星や北斗七星の象徴としての役割も持つようになりました。大将軍八神社の神像たちは、道教、陰陽道、仏教と様々な文化が混ざり合い形を成していく、その過程を示しているともいえます。
童子像が示すもの
80体ある神像のうちひとつだけある、水干に袴姿をした童子像。なぜ、これだけが子供の姿なのでしょうか。
実はこの童子像もれっきとしたひとつの星を象徴しています。
立体曼荼羅の元になった「星曼荼羅」を見ると、北斗七星のうちのひとつ、「武曲星」(第六星)は束帯姿の神様にこの像そっくりの小さな童子が眷属として寄り添う、二人一組の星として描かれています。
実は北斗七星を形作っている星には「ミザール」(第一星・明るい星)と「アルコル」(第二星・暗い星)という連星があります。都会の明るい星空だと分かりにくいのですが、肉眼でもこの連星は確認することができます。
つまり、この童子像は大きな星に付き従う小さな星を現しているのです。
昔の人は実際の北斗七星のことをよく知っていて、それを星曼荼羅にも、そして神像にする際にもきちんとそれを反映させていたのでしょう。
また、この童子像は日本人形のルーツであるとも指摘されているそうです。
よく見ると、神像の大きさや表情、服装の細かな表現などはそれぞれ異なっています。これはそれぞれ別の時期に作られ、少しずつ増やされていったためと考えられます。ひとつひとつの個性を味わってみてください。
正面にある半跏(片足を上げて座ったポーズ)の武神像と7つの束帯像。北極星と北斗七星を表しているそうです。半跏の武神像は奥に見えるこれのみだそうで、他の神像とは違う、特別なものであることを伺えます。