尼門跡寺院の形を伝える建物と境内
しかし江戸時代の終わりごろ、京都で最大の火災と言われる天明の大火(天明8年・1788)で、一度建物は焼失してしまいました。
その後、寛政10年(1798)にまず書院が復興され、その後文政10年(1827)には本堂、その3年後にはに本堂や大門、そして使者の間などが造営されました。そして弘化4年(1847)に阿弥陀堂が建てられ、宝鏡寺はほぼ現在の姿となりました。各建物は、現在京都市の指定有形文化財となっています。
玄関から中に入ると、最初の部屋「使者の間」が目に入ります。ここは来客が本堂への入室許可の待つための控え室でした。
本堂と使者の間を繋ぐ廊下は大きな一枚板で作られており、つなぎ目が全くありません。建物の境目には大きく重厚な扉(御錠口)があり、神聖な本堂の空間と、外の俗世との格の違いを示すように段差がつけられています。
このように、来客や外の人間が出入りする部分と、修行やお勤めの場・プライベートな部分がはっきりと隔てられている形は、尼寺の建物の特徴です。警備役など男性の職員も昔からいたようですが、基本は女性のための空間。その上、宝鏡寺は身分の高い女性ばかりが身を置いていた場所でしたから、その区分けはとりわけ厳重にされていたのでしょう。
本堂へ進むと、正面に苔が一面に敷き詰められた庭にもう一つの門(中門)があります。こちらは姫君たちが輿(こし)でお寺にお越しになった際に開けられたものといわれます。地面には「御輿寄の石」と呼ばれる石が埋め込まれ、輿を置くことができるようになっています。
また、庭の隅の木陰には「御物見」と呼ばれる小さな建物があります。これは、自由に寺の外に出ることができない姫君たちが外の様子を見るために造られたものだったそうです。
宝鏡寺では、このような皇室の姫君たちが暮らす門跡寺院ならではの特徴を、あちこちに見ることができます。
使者の間。展覧会の際は、こちらに有職御人形司・伊東久重氏による人形などが展示され、写真撮影可能スポットにもなります。(他の場所では禁止されているのでご注意を)
本堂から庭を望むと、こんな感じに。生い茂った木はイロハモミジなどで、秋になると美しい紅葉を楽しむことができます。
画面奥、木々の陰には姫君たちが外の世界を垣間見た「御物見」の建物が残ります。これは寺の外からは格子戸だけが見えます。
新旧の名品が揃う本堂と書院
ここでは襖絵として、江戸時代・狩野探幽の筆による「秋草図」と、2004年に描かれた現代の日本画家・河俣幸和氏の二十四面襖絵を見ることができます。
金地に風に揺れる草花を繊細なタッチで描いた優雅な「秋草図」は、狩野派の得意としたモチーフ。対して河俣氏の作品はモダンでありながら落ち着いたタッチで、鹿の群や満開の桜など、春夏秋冬の景色を柔らかな色合いで描いています。(残念ながら隠れている箇所もあるので全ての絵を同時に見ることはできませんが…)狩野派を代表する絵師と現役で活躍する画家の作品を同時に鑑賞できるのは面白いポイントです。
その奥には書院があり、東端北寄りに主座敷である「御座の間」、手前には次の間にあたる「大広間」が配されています。この二つの部屋には、文政13(1830)年に描かれた、円山応震の「四季耕作図」が襖絵として用いられています。
応震は有名な江戸中期の絵師・円山応挙の孫にあたり、床の間の滝山水図や違い棚の花蝶図も彼の筆によるものです。
「四季耕作図」はその名の通り春夏秋冬の農村の様子を描いた作品なのですが、鋤を引いて畑を耕す牛、収穫した稲を脱穀している様子などが、情緒豊に描かれています。宝鏡寺にやってくる姫君たちは、皆御所や邸宅で育った方ばかりで、世間一般のことには疎い状態でした。
そのため、実際の世の中の様子、日々口にする食べ物はどのように作られているのかなど、教育の意味も含めてこの絵が描かれた、とも言われているそうです。
円山応挙と宝鏡寺の関係
すぐ近くには、円山応挙の杉戸絵も見ることができます。特に雉の絵は保存状態が素晴らしい逸品。写生を信条とし、実物の詳細なスケッチを数多く行っていた応挙らしい非常に丁寧で細かな筆致、鮮やかな色合いを味わうことができます。今回ご案内頂いた学芸員の嶋本さんによれば、「祖父と孫、両方の作品が同じ空間に並んでいるのは珍しいのでは」とのこと。裏面にはこれも応挙のトレードマークともいえる、可愛らしい子犬の姿が描かれています。
実は応挙と宝鏡寺には深い縁があります。まだ無名の絵師だった宝暦13(1763)年ごろ、応挙は宝鏡寺に出入りし、当時入寺していた逸巌理秀尼(中御門天皇の皇女)と、その御局(侍女役を務める宮廷の女官)だった蓮池院尼公に取り立てられ、援助を受けたのです。そのため、宝鏡寺には応挙をはじめ、孫の応震や曾孫の応立など、円山派の絵師による作品が幾つか伝えられているそうです。
阿弥陀堂―日野富子と宝鏡寺
さらに奥にある阿弥陀堂。これは光格天皇(1771-1840)の勅作(ご自身で作られた)という、阿弥陀如来立像が御所から移された際に、御所の建材を使用して建てられました。
明治維新の後、宝鏡寺に隣接し、宝鏡寺の住職が代々管理していた大慈院という別の寺を合併することになったため、そこに置かれていた像も一緒にこちらへ移されました。
そのうちの一つに、日野富子の尼僧姿の木像があります。
日野富子は、銀閣寺を建てさせた室町幕府の八代将軍・足利義政公の正妻。京都中を火の海にしてしまった応仁の乱(1467-1477)は、彼女が我が子を世継ぎにしようとした、跡取り争いに端を発したものでした。
戦の後、富子は出家して大慈院に入りました。そのため彼女の木像が大慈院に納められ、それが後に宝鏡寺にやってくることになったのです。
宝鏡寺のすぐ傍には、応仁の乱の激戦地だった百々橋の跡もあります。また、後に富子の娘が、第十五世渓山(けいざん)禅師として宝鏡寺の住職を務めています。何とも不思議な縁を感じずにはいられません。
本堂内、狩野探幽「秋草図」。狩野派の本領発揮、ともいえる優美な金碧障壁画です。奥にはご本尊の聖観世音菩薩像がいらっしゃいます。
本堂内、河俣幸和氏による二十四面襖絵の一部。こちらは秋の図で、たわわに実った葡萄と、木陰でまどろむ鹿の群が描かれています。新旧の作家の作品を同時に鑑賞できるのは何とも贅沢。
円山応震「四季耕作図」。展覧会の開催時は伊東久重氏による、姫君や侍女たちの姿を再現した実物大の豪華なお人形が展示されます(毎回展示テーマは変更)。
円山応挙の杉戸絵。日光の当たり加減がよかったのか、特に雉の絵は状態が良く、まるで最近描かれたようなクオリティです。これも近よってじっくりと鑑賞できます。その際は是非ルーペのご持参を。
応挙ら円山派と宝鏡寺は縁が深く、他にも円山派絵師が手がけた襖絵や絵巻物などが数点伝えられています。