京都における日本画新人賞
第1回 続(しょく)「京都 日本画新展」
2014/01/18 ~ 2014/01/29 美術館「えき」KYOTO
1月31日(金)~4月10日(木)には、ホテルグランヴィア京都
ロビー2階・M3階通路でも一部作品を展示。
を見に行きまして、「京都画壇の将来を担う人材育成をめざし…
と書いてありましたので、ひとまず
「京都画壇
のことを調べました。ぱかぱか…。
(INOBUNさんで買ってもらったメガネケース)
「京都画壇は近世より,土佐派や四条円山派などが展開していましたが,
一般的には明治以後の京都美術界のこととされています。
「特に,明治以降の絵画において,
京都では東京の美術界とは別に独自の発展を遂げ京都画壇と呼ばれました。
あちこちネット検索して(主に図書館のサイト)まとめると、
そんな感じで紹介されています。
なんで明治以降?京都独自の発展とは?
「日本画」のはじまりと「京都画壇」のはじまりを別々にみると
ちょっとわかってきました。
@日本画@
維新後の明治政府は、欧米文化を日本に根付かせようとした。(鹿鳴館など)
日本は欧米に比べて遅れているとか、ダサいとかそういう雰囲気に。
だけど、日本はもっと日本の文化と芸術を大事にするべきだ!
と主張が出る。
美術は「国華」(こっか)であり、国の名誉だと目され
西洋絵画に対抗しうる「日本画」の構築と近代化が叫ばれた。
そんなことで「日本画」という言葉が明治に誕生。
それまでは「日本画
と、あえて言う必要がなかったんですね。
だから「狩野派」(大和絵ばかり)とか
「土佐派」(漢画メイン、雪舟など)とかジャンルで呼ばれていた。
でもとにかく「洋画」に対して、そういうのは全部「日本画」!
東京では岡倉天心が東京美術学校を作ります。がんばろう!
@京都画壇@
京都では、明治13年(1880年)に京都府画学校ができます。
(京都市立芸大の前身)「京都は美術の都!再始動させたい!」
幕末以降のダメージから立ち直ろうと、民間画家や地元の各界の人たちが
力を合わせて設立したそうです。
なので、京都は「国
というよりはまず「京都」としての誇りを美術に
託したのだと、私は解釈しました。
京都の人たちは、ずっと京都の美術を大切にしていて、その元からの流れや
基盤の上に京都画壇は形成されたようです。
そんな時代で、四条 円山派の始まりは…
京都史上最大の火災「天明の大火」(1788)で被災した円山応挙
(すでに活躍中)が避難した先に呉春(蕪村に師事)がいた。双方の
関係が深まり、それぞれのところに弟子が入ることで、発展していったようです。
(四条派は、呉春のグループのことで、後に竹内栖鳳が受け継ぐ。
応挙の影響を受けた呉春は、応挙の没後に京都の画界の中心人物になった。)
ざくっと言えば、美術への関心や必要性が高まっているときに
呉春と応挙が出会い、「京都画壇」がスタートした。
火災がなければ、どうなっていたのでしょうか…ご縁って不思議。
京都画壇を「日本画を描く京都の画家組
と思っていたけれど、極論、
京都画壇の絵が<日本画>を率先して作った と考えていいのかも。
興味のある方は、ぽちぽち検索したらドサッと出てくるので、研究されると
面白いかもしれません…。
@参考文献@
平野重光監修・吉中充代 中村麗子
「もっと知りたい竹内栖鳳 生涯と作品
東京美術
堀江宏樹 滝乃みわこ
「乙女の美術史 日本編」実業乃日本社
(冬休みに全部図書館で借りましたよ)
で、第1回 続(しょく)「京都 日本画新展」なのですが、
次回その様子について少しレポートします。なんで「続」を
「しょく」と読むのか!? 聞いてみましたよー。
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