京遊×橋本関雪記念館 白沙村荘の庭から 第四回
京都には大小さまざまなミュージアムがありますが、その中には現在も人が暮らしている家の一部をそのまま公開しているようなところもあります。そんなミュージアムのひとつが、日本画家・橋本関雪の建てた邸宅である白沙村荘 橋本関雪記念館。その副館長で関雪の曾孫である橋本眞次様に、普段はちょっと分からない、美術館での日々を徒然と綴っていただくコラムです。
とにかくエピソードが多く語られる画家であり、よく知られる内容のものと言えば師匠筋である竹内栖鳳との次世代にまで跨がる確執や、銀閣寺畔の居宅である白沙村荘前に通る疎水沿道(哲学の道)に妻とともに桜を寄贈し植えた話などがあります。 この「関雪桜」の話は春になるとよく出る話題なので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。妻亡き後に詠んだ「朶雲壓水一渠斜 春伴潺湲巡我家 悩殺幽人残夜夢 風々雨々不離花」の詩碑も近年になりよく取り上げられています。
関雪桜七言絶句詩碑
詩の意味は、「春になり桜の花が満開を迎える頃になると、私は毎日 妻と過ごした日々の思い出ばかりを思い出してしまい、私はあふれる涙を止める事が出来ずにいる 」 。
(白沙村荘(橋本関雪記念館)「関雪桜について」より)
他によく知られる話と言えば蒐集癖があります。まだ成功を見ない貧窮時代にも骨董を見ては買い、見ては買いをしていたようです。この生来の病気はどうやら父の海関から受け継いだもので、海関も幼い関雪にあれこれと骨董を見せては教育を施していたのでしょう。
しかし困窮の最中でありながらも時には生活費すら使い込む事もあったようで、妻に宛てた借用証書まで残っています。この蒐集癖は晩年には舞台を世界に移して大規模に繰り広げられる事となり、「関雪コレクション」と呼ばれる明代の書画、ゴォガンやセザンヌ、マチスなどの近代印象派画家の洋画、ギリシャやペルシャの陶器など数万点にもおよぶ一大コレクションが築かれました。
これらのコレクションの中には藤原時代から鎌倉時代に至る無数の仏像もあったのですが、これは当時神仏分離令により逼迫していた寺社の救済を行った際に譲り受けたものであり、京都や関西地域に今在る寺社の多くが関雪による恩恵を受けたようです。
「藤原時代のものは趣味ではないのだが、近年になり国外に多くのものが流出をしているようなので、それならと手に入れたものである」という、歴史的価値の高い文化財の流出を憂いた関雪の遺稿が遺されています。
梟のアンフォラ
こういった功績もある傍らで、当時の関雪を紹介した著書や批評はあまり良くない内容のものが大半を占めています。全てを否定する訳でも彼を擁護する訳でもありませんが、これらは冒頭で触れた竹内栖鳳との確執の中で生まれた誹謗中傷も幾分かは含まれているのでしょう。それ以外も「酔ってあれこれをした」という内容ばかりです。
前者は画壇という世界の中で目上の人物に逆らった本人が全面的に悪いとは思いますが、後者は酒の席での話をあれこれ書き立てる記者がどちらかといえば卑しいだけのことです。しかしその内容が悪い話であっても良い話であっても、結果的には画業以外での関雪の人間像を後世に伝えるものとなっていますから、「人間万事塞翁が馬」って事ですね。
著者プロフィール
橋本眞次(はしもと・しんじ)
1973年、京都生まれ。
大正・昭和にかけて活躍した日本画家、橋本関雪の曾孫にあたる。
23歳の頃、関雪に興味を持ち父の仕事を手伝いながら資料編纂などに携わる。
現在は白沙村荘 橋本関雪記念館の副館長として活動中。
公式ブログ「京都の庭ブログ」はこちら↓
http://hakusasonso.kyo2.jp/