京遊×橋本関雪記念館 白沙村荘の庭から 第七回
京都には大小さまざまなミュージアムがありますが、その中には現在も人が暮らしている家の一部をそのまま公開しているようなところもあります。そんなミュージアムのひとつが、日本画家・橋本関雪の建てた邸宅である白沙村荘 橋本関雪記念館。その副館長で関雪の曾孫である橋本眞次様に、普段はちょっと分からない、美術館での日々を徒然と綴っていただくコラムです。
11月2日から岡崎の京都国立近代美術館で上村松園展が開催されます。上村松園といえば近代京都画壇の中でも特に有名であり、その画面に写された女性たちは凛として、当時の京都画壇で独自の画境を持つ画家として知られているのではないでしょうか。
松園は、関雪から見ると8歳ほど年上の先輩にあたります。松園の画号は最初に鈴木松年から付いたもの。その後幸野楳嶺に師事、2年後に楳嶺の逝去に伴い竹内栖鳳に師事しています。関雪と唯一接点のある場所は、おそらくこの栖鳳の画塾での出会いだけであっただろうと思われます。
松柏美術館
上村松園のほか、上村松篁(息子)、上村淳之(孫)の作品が展示されている
当然、画壇の先輩であり特に紅一点である松園を関雪が知らないはずはありませんし、何かと噂に事欠かない関雪の事を松園が知らないはずはありません。しかし関雪は最終的に京都画壇に在籍していながら、あまり京都の画家たちと交流をもたずに活動していました。
関雪とそれなりのお付き合いがあった画家は遺された書簡などから察するに、金島桂華、福田平八郎、西村五雲、西山翠嶂、堂本印象、菊池契月、山本春挙あたりでしょうか。東京画壇では横山大観、川合玉堂が若干懇意であったようです。同じ画壇にいながらも、関雪と松園の交流というものは殆どなかったようです。
松園が関雪について触れている唯一の記述が、「写生帖の思ひ出」という一文の中にあります。
「栖鳳先生が西洋から帰られて、2,3年後大阪で博覧会が開かれた。其時先生は羅馬古城趾真景を出品されたが、其年前後から栖鳳先生の塾で近郊写生旅行が繁々行われた思ひ出がある。先生も洋服を着て一緒に行かれたが、内畑暁園、八田青翠、千種草雲と云ふような人達が中心になって、私も後からよくついて行つた。鞍馬から貴船に行った事があったが、確か鞍馬で百姓馬や大原女を写したりしてると其頃塾に入り立ての橋本関雪さんが、僕が乗ってやるさけ皆で写しとき、と言はれてその百姓馬に乗られ、馬には恁うして乗るものやで皆覚えとき、どや色男振りは、などとテンゴ言ひもてそこらを乗り廻してゐられた。夫れが私の写生帖に写されてゐるが、矢張り其頃から関雪さんは四角な顔してゐられた。(写生帖の思ひ出・絵と随筆より 塔影社 1932(昭和7)年 初出)」
関雪が竹杖会に入りたてというと、明治36年(1904)のあたり。関雪はまだ20代の前半、松園は30代に入りかけた頃でしょう。当時は既に世に知られた先輩と、売り出し中の若手という関係なのでしょうがそれから十年もすると、「大正8年(1919)5月15日、京都美術学校新設問題について、京都市長安藤謙介氏は橋本関雪、竹内栖鳳、山本春挙、上村松園らを集めて協議を行った。」という内容に示されるように、協議の席に同様に呼び出されるまでとなっていました。
その後関雪が竹杖会を脱退し、両者の接点はほぼ失われてしまいます。しかし、同じように画の道に在った二人ですから折りにふれ、互いの描く作品を通じて何かしらの影響を与えあっていたのではないかと思います。
残念ながら両者の作品が揃って並べられる機会は非常に少ないものでありますが、いつかは「大京都画壇展」が開催されて松園も関雪も、そして京都画壇の他の画家たちもが当時のように肩を並べる日が来ることを楽しみにしているのです。そう、いつかは。
会期 平成22年11月2日(火)~12月12日(日)
会場 京都国立近代美術館
開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
京都に生まれ育ち、円山・四条派に連なる画家に学び、文展等官展系展覧会に高い気品の漂う人物画を発表して活躍した上村松園(1875–1949)。今展は、《舞仕度》《焔》《砧》など、より質の高い代表作約90点によって、松園の画業を回顧するとともに、松園芸術の本質を改めて探ろうとするものです。
著者プロフィール
橋本眞次(はしもと・しんじ)
1973年、京都生まれ。
大正・昭和にかけて活躍した日本画家、橋本関雪の曾孫にあたる。
23歳の頃、関雪に興味を持ち父の仕事を手伝いながら資料編纂などに携わる。
現在は白沙村荘 橋本関雪記念館の副館長として活動中。
公式ブログ「京都の庭ブログ」はこちら↓
http://hakusasonso.kyo2.jp/