※この記事は掲載時(2012年11月)の情報に基づきます。
京都MUSEUM紀行。第九回【新島旧邸】
そんな彼女を想い、新島は旅先の様子や見聞きしたことを自筆のイラストを添えて頻繁に八重へ書き送っています。八重からの返信は残念ながら残っていないようですが、新島の妻への優しさが伝わってきます。
また、旅好きの二人は時間を見つけては旅行に出かけていました。互いの実家を訪れたり、新島が海外脱出した思い出の地・函館を訪問したこともあったそうです。
しかし無理が祟ったのか、新島は心臓病が悪化し、1890年に神奈川県の大磯で危篤に陥ります。知らせを聞いて京都から駆けつけた八重は献身的に看病したものの病状は回復せず、新島は八重の腕の中で息を引き取りました。最期の言葉は「グッドバイ・また会わん」。まだ46歳の若さでした。
新島と八重が二人で過ごした時間はわずか14年と意外に短いものでしたが、新島にとっては八重は生涯最良の伴侶でした。また、かつて八重を罵った新島の生徒・徳富蘇峰は、臨終の席に立会い、そして八重へ過去の非礼を深く詫びたといいます。
新島が亡くなった後、八重は夫婦で立てた家で一人過ごすことになりました。
一人暮らしにはかなり広い家ですし、周囲にあまり民家もなく、街灯もほとんどない場所で女性一人で過ごすことは当時どれだけ大変だったことでしょう。しかし、気丈な八重はお手伝いさんも雇わず、炊事洗濯から掃除まですべて一人でこなしていたそうです。
一方で、新島と暮らしていた当時は西洋的な生活をしていたのに対し、彼の没後の八重の生活はむしろ伝統的な日本の生活に回帰していくようになります。会津の武家出身である八重にとって、やはり和の暮らしの方が慣れていたのでしょう。
家の内装からも新島を亡くした後の彼女の生活が垣間見られます。
2階
2階の廊下。
一見するとまさに日本家屋のようです。
2階の寝室。新島の没後、家はあちらこちらが改装
されているそうです。
この部屋も現在は畳が張られて
いますが、昔はここも1階同様のフローリングでした。
かつてはすべて板張りになっていたという床も一部は畳敷きに改装されています。ベッドも置かれていますが、和の生活に慣れ親しんでいたこともあり八重は足がほとんどない背の低いものを使っていたそうです。
繊細な日本画が襖に描かれた押入れ。普通の押入れと異なり、部屋の高さを考慮し下に引き出しの
スペースを設けています。襖が洋物の扉ならまさにクローゼットに見えますね。
床の間に置かれていた膳。縁に描かれた丸に根笹の紋は新島家の家紋です。
茶室
茶室といった雰囲気です。あまり八重の生活は裕福なものではありませ
んでしたが、茶道への情熱は相当のもので、収入(同志社へ土地建物
を寄付したことなどによる毎月支給の謝礼)も多くは茶道の道具などに
使っていたのだそうです。
八重が本格的に茶道を習い始めたのは、新島が亡くなって4年後の1894年のことでした。八重がかつて女紅場に勤めていた際の同僚の一人が裏千家13代家元・園能斎の母で、その縁で園能斎の下で茶道に親しむようになったそうです。八重の腕前はめきめきと上達し、習い始めた翌年には「茶通箱」(初級)に、4年後には「真之行台子」(上級)を得、教授の免状も取得するほどでした。女性の茶人としては最高の域まで上り詰めたのです。
(写真提供:同志社社史史料センター)
(写真提供:同志社社史史料センター)
一方で同志社に対しては、八重はやや距離を置いていたといいます。しかし全く学校に関わることがなかったというわけではなく、学生たちとの交流はその後も続いていました。卒業式などの行事の際には必ず出席して学生たちに亡き夫の思い出を語って聞かせていたそうです。また、かつて新島に学費を援助してもらっていたという学生が訪れて学費の件を八重に尋ねたところ、「そのことは襄から聞いています。今後は私から毎月出しますから心配しないように」と答えたという話も残っています。この学生は深井英五といい、後に日銀の総裁を勤めています。
また、八重が友人の宣教師夫人と共に立ち上げた私塾が元である同志社女学校では、八重はかつて女紅場で教職を務めた経験を生かし、小笠原流の礼法と英語のスペリングを教えていました。新島の没後に八重が教職から離れた後も学生からは慕われていたようで、アメリカに留学してホームシックにかかった同志社女学校の卒業生のひとりからはまるで母親に宛てたかのような恋しい心境を綴った手紙が八重に送られています。
ほかにも、ある女学生が下駄の鼻緒を切ってしまい困っているのを見かければすぐに駆けつけて布切れを差し出したり、雨の日に傘がなくずぶぬれになっている学生には笑顔で傘を貸し出していたことも何度もあったといいます。
八重は学生たちからも「新島のおばさま」「新島のおばあちゃん」と呼ばれ家族のように親しまれていたそうです。家の前で撮影された多くの学生たちに囲まれた八重の写真は、まるで多くの孫たちに囲まれているように穏やかです。
附属家
室内には新島夫妻の関連資料が展示されています。新島から送られたイラスト入りの手紙(備中高松からのもの)や八重の描いた絵のほか、食器や調理器具なども見ることができます。木板製の百人一首カルタは八重の故郷・会津若松で用いられていたもので、正月になると毎年学生たちを相手に楽しんでいたそうです。ちなみに八重の腕前は5人相手でも負けないほどだったといいます。
には力強さと逞しさが感じられます。
(写真提供:同志社社史史料センター)
新島旧邸の建物と敷地は1907年(明治40年)に八重によって同志社に寄贈され、以後大切に守られてきました。1990年には新島襄の生誕150年記念事業として建物全体の解体保存修理が行われ、2年後の工事完了後より一般公開されています。
関する解説展示などが行われています。
(取材にあたっては、同志社社史資料センターの布施様にご案内をいただきました。この場を借りて御礼を申し上げます)
新島旧邸
所在地
〒602-0867
京都市上京区 寺町通り丸太町上ル松陰町18
公開日
※2014年4月〜9月メンテナンスのため、休館。10月以降については公式サイトで要確認。
お問い合わせ
同志社大学 同志社社史資料センター
電話番号 : 075-251-3042
(受付は平日9:00~11:30、12:30~17:00)
公式サイト
■料金
無料
※公開場所は母屋1階と附属屋です。
※建物の構造上バリアフリーではありません。
■交通のご案内
京都市営地下鉄「丸太町」下車、徒歩10分
京阪電車「神宮丸太町」下車、徒歩10分
※駐車場・駐輪場はありません。公共交通機関をご利用ください。
京都MUSEUM紀行。アーカイブ
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