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※この記事は掲載時(2015年5月)の情報に基づきます。

特集記事

京都MUSEUM紀行。【建勲神社】

京都ミュージアム紀行 建勲神社

  • “山の頂から京都を見守る、武将の社
  • “京都のはじまりと歴史の山―船岡山


拝殿前、石段上から境内を望む。

日本の歴史上の人物で、特に知られている人は?と問われれば、織田信長の名前は必ず挙がることでしょう。「天下布武」を掲げ、天下の覇者となるべく邁進し、殆どの国を手中に収めたものの、後一歩のところ命を落とした信長。京都は彼の人生における主要な舞台のひとつであり、そして終焉の地でもあります。
そんな信長を祀る神社として知られるのが、船岡山の山頂にある「建勲神社」です。
建勲神社の御神徳は国家安泰・万民安堵とされますが、一般的には歴史上の活躍にあやかり、難関突破や大願成就などの神社として信仰されています。また、本来の名は「たけいさおじんじゃ」といいますが、京都の人々をはじめ一般には「けんくんじんじゃ」「けんくんさん」の名前で親しまれています。

山の頂から京都を見守る、武将の社

実は、建勲神社が建てられたのは明治時代。実はだいぶ新しい神社であるといえます。建勲神社の起源は、本能寺の変が起こった天正10年(1582)に歴史は遡ります。
本能寺で明智光秀の謀反にあった信長が倒れた後、彼の葬儀は京都・大徳寺にて、秀吉の手で盛大に執り行われました。そして信長の霊を慰めるべく、大徳寺の南に位置する船岡山に寺院を設け、像を安置することが計画されました。時の正親町天皇からもお許しが出、天正寺の寺号を賜りましたが、寺院の建設は途中で中止になり完成することはありませんでした。

時は流れて明治2年(1869)。
戦国の世に天下統一の道筋をつけ、日本の近代化の基盤を作り、朝廷の復興にも尽力した信長の働きを高く評価された明治天皇は、信長の偉勲に対して神社を創るようにと宣下を出されました。
翌年には「建勲神社」の神号を賜い、明治8年にはもともと信長のための寺院を立てる予定地であり、長く信長の廟所として大切に保護されてきた船岡山に社地が定められました。明治13年(1880)には船岡山の山麓に新たに社殿が造営され、信長の嫡子・信忠もともに祀られました。その後明治43(1910)に山頂の現在の場所に建物が移されました。
船岡山からは京都の町並みを一望できるほか、比叡山や如意ヶ嶽などの東山三十六峰を眺めることができ、眺望のよさでも知られます。特にお盆に行われる五山送り火の際には、鳥居形を除く4つの山も見ることができるそうです。


この日は残念ながら曇りでしたが、天気がよければ建物の向こうに大文字山(如意ヶ嶽)が見えます。

《別格官幣社》

明治8年(1875)、建勲神社は「官幣社」、なかでも日本の歴史上特別功労のあった人物を祀る「別格官幣社」とされました。官幣社というのは、明治4年(1871)に平安時代の『延喜式』を基に制定された「近代社格制度」に基づく神社の社格の一つです。「近代社格制度」では神社を官社/諸社/無格社の3つに分け、さらに官社は官幣社と国幣社に分けられていました。官幣社には官幣大社、官幣中社、官幣小社、別格官幣社の4種類があり、別格官幣社は全国に28社ありました。

歴史と時代の風潮を刻んだ建物たち

「武将を祀る神社」と聞くと、それこそ東照宮のように派手で荘厳なイメージを思い浮かべますが、建勲神社の建物は大変シンプルなつくりとなっています。
これは、明治の初めに、官幣社の神社建築の様式や規模について政府が定めた「神社建築制限図」と呼ばれる図面に則って建てられたためです。「神社建築制限図」は、日本古来の伝統的な建築様式や建築技法に基づいており、建勲神社も彫刻や極採色などは施されず、木の風合いを生かした簡素な造りとなっています。
明治の初めごろは、江戸時代の神仏習合の動きに対して、神仏分離政策がとられており、神社建築も日本の神道本来のスタイルに戻るべき、という考えが強かったようです。
神社の建物には、建てられた時代の風潮や歴史も刻まれている、といえます。

《拝殿》

境内の中心部に立つ吹き放ちの拝殿。大きな屋根を細身の柱が支えるかたちは軽快な印象を与えます。内側には、信長の主だった家臣たち「織田信長公三十六功臣」を描いた額のうち18枚が飾られています。こちらも国の登録有形文化財に指定されています。

《本殿・神門》

拝殿の奥にある本殿と神門。朱塗りなどはなく、シンプルですっきりとした建物となっています。平成20年に国の登録有形文化財に指定されています。本殿の屋根は正面の柱間が1つしかなく屋根が非常に反っている「一間社流造(いっけんしゃながれづくり)」という非常にコンパクトなつくりが特徴です。神門・本殿のちょうど真後ろには、船岡山の山頂が位置しています。

織田信長公三十六功臣とは?

信長は永禄11年(1568)に京都へ上洛を果たします。その際、朝廷から官位を授ける打診を受けますが、信長は自らよりも生死を共にした家臣たちに恩賞を与えるように願い出ました。この信長の意思に基づき、建勲神社が創建された際に、信長の下で特に功を挙げた家臣を36名選出し、綿密な時代考証の元、彼らの最も著名な業績を描いた額を拝殿に飾ることになりました。絵を描いたのも、三十六功臣の末裔にあたる方でした。
スペースの関係上、実際に拝殿に飾られているのは18名分の額ですが、他の額は全て下絵とともに大切に神社で保管されています。

《狛犬》

拝殿手前の石段下の狛犬は、平成6年に奉納されたもので、織田信長の出身地に近い愛知県の石を素材として制作されています。このほかにも、山のふもとには平成9年に奉納された狛犬があります。こちらは織田信長が海外の文化にも目を向けていたことにちなみ、海外産の石を使用し表情も少し違ったテイストになっています。神社を訪れた際は、ぜひ見比べてみては如何でしょうか。

拝殿手前の狛犬。力強さと同時に表情にはどこか可愛らしさもあります。

《社務所》

受付やお守り・お札などの授与を行う社務所。入母屋造桟瓦葺の平屋建で、こちらも国の登録有形文化財に指定されており、隣の建物(貴賓館)と繋がっています。

・社務所前の大岩

社務所の眼前には層状になった大きな岩が鎮座していますが、これは古代の地層がむき出しになったもので、その成分のほとんどはチャートといわれる岩石です。チャートは海底にプランクトンなどの堆積物がたまって形成されるとされ、船岡山はほとんどがこのチャートの岩盤でできており、山の中を歩くとところどころに岩がむき出しになった場所が見られます。つまり、この岩は古代船岡山が海にあったことを示しています。学校の生徒が地質学の勉強のために見学に訪れることもあるのだとか。神社を訪れた際は、こちらも注目してみたいポイントです。


人と比べると、その大きさがよくわかります。


きれいな層状に岩が重なっています。チャートは恐竜がいたような時代に形成されたとされ、元も硬い岩石のひとつといわれています。

《所蔵品》

建勲神社には、桶狭間の戦いで今川義元を破った際に手に入れた刀「宗三左文字(義元左文字)」をはじめ、当時信長が着用していたとされる鎧「紺糸威胴丸」などの宝物が収められています。また、信長の生涯や戦国~安土時代の歴史を伝える重要な資料「信長公記」も、著者である太田牛一の自筆本が伝えられています。(どれも通常は非公開ですが、関連する展覧会が開催される際などには出展される場合があります)

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建勲神社

所在地

〒603-8227
京都府京都市北区紫野北舟岡町49

開館時間

境内拝観自由
社務所:9:00~17:00

休館日

年中無休

お問い合わせ

電話番号:TEL 075-451-0170

FAX:075-451-0170

公式サイト

http://kenkun-jinja.org/

■交通のご案内

【市バス】
*「建勲神社前」バス停
1、12、204、205、206、北8、M1系統「建勲神社前」下車、船岡東通りを南へ徒歩3分、表参道大鳥居に至る。大鳥居より約120段の石段を上ると社務所に至る。
※「建勲神社前」バス停から社務所までは徒歩約7分です。
*「船岡山」バス停
同上系統「船岡山」下車、今宮門前を南へ、建勲神社北参道(ゆるやかな坂道です)を上り、さらに約50段の石段を上ると社務所に至る。
※「船岡山」バス停から社務所までは徒歩約9分です。

【車】
北大路通りの北参道より参入、船岡山中腹に至る。車道のつきあたりからは、約50段の石段を上り1~2分程度で社務所に至る。
※ 京都駅からタクシーで約25分です。




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